埼玉新聞ロゴ

2016.6.9

「教え子」スローガンの誕生

布村育子

埼玉学園大学人間学部准教授

布村育子

ぬのむら・いくこ 東京学芸大学連合大学院博士課程単位取得退学。修士(教育学)。埼玉学園大学人間学部専任講師などを経て09年から現職。著書「迷走・暴走・逆走ばかりのニッポンの教育―なぜ、改革はいつまでも続くのか?」(日本図書センター)。論文「『大人』にならないための成熟」(現代のエスプリ)。専門は教育社会学、教師教育学。

「教え子を再び戦場に送るな」という言葉を耳にしたことがあるかもしれません。1951年に、日教組が平和に対する自分たちの姿勢を示した有名なスローガンです。私はこの「教え子」スローガンが、いつ、どのように作られたのかを研究しました。

■時間をかけた研究

研究の方法はとても単純です。スローガンがつくられた時期の日教組の史料に片っ端から目を通し、関係する人物などについての情報を駆けずりまわって集めたのです。史料は65年も前のものですから、手に取ると破れてしまいそうなこともありました。情報は、一カ所にあるわけではありません。集めるために多くの場所に行きました。当時のことを知る埼玉在住の教育学者に会いに行きましたし、関係者の証言が録音テープに残されていると知って、それを聞きに大阪にもいきました。時間のかかる研究になりました。

■2つの説の関係を探る

そもそも「教え子」スローガンの誕生には2つの説がありました。一つは1951年1月の誕生説、もう一つは同年5月の誕生説です。私の結論は、フレーズは1月、スローガンは5月です。

1月には日教組の中央委員会がありました。この委員会で「再び教える子を戦場え(ママ)送らない決意のもとに」というフレーズの挿入された「講和問題に関する決議」が採択されました。1951年は、米ソの対立が本格化していました。日本はアメリカの占領下でしたが、同年に独立をします。このとき、アメリカ側とだけの平和を考えるのか、ソ連側を含めて平和を考えるのか、大論争になっていました。日教組は後者の立場をとりました。この立場を示したのが「講和問題に関する決議」です。つまり、政治的な方針の中にこのフレーズが使われていたのであって、「教え子」スローガンは、まだ誕生していませんでした。

5月には日教組の定期大会がありました。この大会で「憲法を守り、教え子を再び戦場に送るな」というスローガンが採択されました。このとき日教組は、広い視野で平和を考えるという姿勢をはっきりさせて、教育運動に力を入れていくことを確認しました。

■研究から見えたスローガンの性格

重要なことは、1月から5月にかけて、意味が変化したということです。1月時点で日教組は、労働運動に傾斜していました。しかし5月には、教育運動にも力を入れるという、大きな方針転換を打ち出しました。スローガンはこの転換の中で誕生しました。「教え子」のフレーズは、戦争への反省を、それまでうまく言葉にできなかった教員たちの心情を一気につかみました。労働組合として、政治的な問題に取り組もうとする方針案の中にあった短いフレーズが、現場教員の心をつかんで、その後の教育運動の中心的なスローガンに「転用」されていったのです。65年間、このことは明らかになっていませんでした。戦後教育史には、たくさんの謎があります。歴史の謎を解くのは大変な作業ですが、誰も知らない秘密に触れるような、スリリングな体験でもあるのです。

=埼玉新聞経済面 県内大学発「経世済民」=