埼玉新聞ロゴ

2016.7.26

霞ケ関いまむかし

吉田量彦

東京国際大学商学部教授

吉田量彦

よしだ・かずひこ 71年、茨城県水戸市生まれ。慶應義塾大学、同大学院を経て、ドイツ・ハンブルク大学にて学位取得(哲学博士)。東京国際大学商学部准教授を経て、2016年4月より現職。専門は17・18世紀の西洋近代哲学。

■村域に由来しない名

東武東上線の霞ケ関駅に「東京国際大学前」という副駅名がついた。近隣の学校名を駅名に追加するこの手法、どうやら首都圏の私鉄沿線で流行しているらしい。

当の大学に勤務しているものとしては素直に喜ぶべきかもしれないが、霞ケ関の住民(駅から徒歩5分ほどのところに住んでいる)としては少しだけ複雑な気分が残る。理由はこの文章を最後まで読んでいただければ分かる、はずである。

川越市西部に広がるこの一帯は、1955(昭和30)年に吸収合併されるまで、霞ケ関村という独立の自治体だった。江戸期から続く的場村、笠幡村、安比奈新田村が合併して、1889(明治22)年にできたのが霞ケ関村である。元になった3つの村の名は、今も大字(おおあざ)として地域に残っている(わたしは的場の住人である)。

霞ケ関という村名だが、実は村域の中のどこにも由来していない。これには合併交渉時のややこしい経緯がかかわっている。

■ややこしい経緯

当初、合併交渉のテーブルには、先の3村の他に、さらに南の柏原村(現狭山市)も加わっていた。この柏原村の南端の村境に、その昔、鎌倉街道(上道)の関所があったとされ、さらに伝承が上書きされて、この場所こそいくつかの古歌に詠まれた歌枕・霞ケ関(霞の関とも)の跡ということになっていた(もちろん、ほかにも比定地は存在する。東京都千代田区で官庁街になっている霞ケ関も、その一つである)。

この霞ケ関を新村名にいただこうということになったのである。証拠はないが、恐らくは柏原村からの提案だったろう。柏原村は人口統計上、僅差ではあるが合併交渉時の最大勢力だった。

ところが合併まで半年少々という時に、当の柏原村が離脱してしまう。地区から村役場まで距離ができ、公金などを運ぶのに治安上の不安が増すとか、住民が合併後の予算の負担率に不満を示しているとか、そういう理由が表向き挙げられたようだが、真相は謎である。いずれにせよ、ほかに妙案もなく、選び直す時間もなかったのだろう。残り3つの村の合併で誕生した村は、そのまま霞ケ関村と名付けられた。

■涙ぐましい努力

村域とは何の縁もゆかりもなくなってしまった霞ケ関という村名を、それでも何とか定着させようと、村の有力者層は涙ぐましい努力を重ねた。例えば、2020年の東京五輪でゴルフ競技の会場となる霞ケ関カンツリー倶楽部は、1929(昭和4)年、地元の有力者の肝いりで開業したゴルフ場である。

開業に合わせて東武鉄道と交渉し、それまで「的場」であった村内の東上線の駅名を、翌年「霞ケ関」に変えさせている。ゴルフ場の最寄駅であることを分かりやすくする、という表向きの意図のほかに、霞ケ関という村名そのものを広めようとする意図も絡んでいたに違いない。

この時の改称は住民の頭ごしの交渉で決められたらしく、的場地区では抗議運動も起きた。今なら「霞ケ関カンツリー倶楽部入口」を副駅名にするという、別の決着が図られていたかもしれない。

=埼玉新聞経済面 県内大学発「経世済民」=