埼玉新聞ロゴ

2016.9.8

1949年の平和運動

布村育子

埼玉学園大学人間学部准教授

布村育子

ぬのむら・いくこ 東京学芸大学連合大学院博士課程単位取得退学。修士(教育学)。埼玉学園大学人間学部専任講師などを経て09年から現職。著書「迷走・暴走・逆走ばかりのニッポンの教育―なぜ、改革はいつまでも続くのか?」(日本図書センター)。論文「『大人』にならないための成熟」(現代のエスプリ)。専門は教育社会学、教師教育学。

平和問題討論会を知っていますか?

1949年に全国各地で開催された、シンポジウムのことです。よく似た語感を持つ、平和問題談話会(以下、平談会)は有名ですが、平和問題討論会は無名と言ってよいと思います。でも、平談会と平和問題討論会とは関係が深いのです。

■平談会と討論会の関係

平談会から説明しましょう。48年、国際情勢は悪化し、第3次世界大戦が現実になりそうな状況でした。これを危惧した学者たちが集まって、今後の世界平和について議論しました。これが平談会の始まりです。平談会の考えは、吉田内閣の方針とは合致していなかったので、極左的だと批判されました。

けれども学者たちと同様に、戦争への不安を感じていた多くの人々は平談会に共感し、平談会を中心にしたムーブメントが起こったのです。昨年の安保法制を巡る状況と似ていますね。この平談会に参加していた学者たちが、49年、全国各地で「平和」をテーマにシンポジウムを行いました。これが平和問題討論会(以下、討論会)です。主催したのは日教組でした。

■49年の日教組の運動

このように書くと日教組は、平和運動にすごく力を入れていたのだな、と考える人がいると思います。ところが調べてみると、当時の日教組は平和運動をほとんど何もやっていなかったのです。平談会の清水幾太郎が日教組を訪れた時に、彼らの平和に対する無関心さを嘆いています。

けれども日教組は労働組合です。49年は労働組合とGHQの関係が大きく揺れ動いた年です。下山事件など、未だ解決していない労働組合を巡る事件が起こったのも49年です。日教組からすれば、平和運動なんて、それどころではないぞ、というのが本音だったと思います。

ただし、組合員の全員が平和を考えていなかったわけではありません。日教組の内部には「教文部」という組織がありました。その中の数名が、平談会と連絡を取り合い、討論会が実現したのです。

■歴史研究者が目指すこと

討論会が開かれた都市の一つに函館があります。函館を訪れた時に、当時のことを調べてみました。49年10月1日の北海道新聞は、会場の「新川小学校」に集まった熱心な聴衆の様子を、写真付きで伝えていました。つまり、平談会を中心としたムーブメントは、討論会の成功によっても支えられていたわけです。

やがて日教組は、同年11月の大会で、平和運動を組合の柱とする決定をします。平談会の方は、51年9月のサンフランシスコ平和条約の締結までに三つの声明を出し、一旦役割を終えます。しかし日教組は「平和」を手放さず、教育運動の中で平和を考えていく道を選びました。これは6月の本紙でお伝えした通りです。

昨年の今頃は、安保法制を巡って世論が大きく分かれました。私が注目する49年もまた、平和を巡って世論が大きく分かれていました。歴史研究者にできることは、当時の小さな動きにまで目を凝らして、時代の雰囲気や息遣いにまで迫ることです。それが「今」を考えるヒントになるかもしれません。

=埼玉新聞経済面 県内大学発「経世済民」=