埼玉新聞ロゴ

2016.11.15

ある埼玉県知事のこと

村松晋

聖学院大学人文学部日本文化学科教授

村松晋

むらまつ・すすむ 70年生まれ。2000年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科史学専攻修了、博士(文学)。専攻は近代日本思想史・精神史。著書に『三谷隆正の研究』(刀水書房、01年)、『近代日本精神史の位相』(聖学院大学出版会、14年)、論文に「二瓶要蔵論序説」(『新渡戸稲造の世界』25号、一般財団法人新渡戸基金、16年)など。

■川西実三のまなざし

今年は何かと「知事」が話題になった。だからというわけではないが、本欄でも一人の埼玉県知事を紹介したい。

川西実三(1889〜1978年)のことである。

彼は今から80年前の1936年、33人目の埼玉県知事に就任した。当時の知事は住民の投票で決まるものでなく、川西も「中央」からの赴任であった。在職期間も長くなく、38年には長崎県知事に転任となった。しかし、川西は知事としての2年を通し、本県にいくつかの足跡を遺した。例えば戸田のボートコースである。三峰山にはロープウェイも設置した。37年、ヘレン・ケラーの埼玉訪問を実現させたのも彼である。

ただし、これらは時節柄、別の誰かが知事であっても成し遂げられたことだろう。川西が本県に遺した最大の"贈り物"は、その「低き」まなざしと言ってよい。例えば、彼は歴代知事と同様に、県内視察を行った。しかし、川西が最初に赴いたのは、交通不便でこれまでどの知事も足を踏み入れなかった秩父地方の山村だった。長崎県知事就任の折も、川西は離島から県内視察を始めている。

そんな川西の人柄を、当時の新聞はこう評価した。いわく、「川西知事は『話せば分る』の熱烈な信者で、凡そ対立抗争などとは縁遠い而もこの『話せば分る』は人の話もよく聴くし自分でも諄々と説いて倦まぬ」と(『東京朝日新聞』埼玉版、36年11月10日)。このように川西は、「知事」としての「高み」から職員ひいては県民を見下ろすのではなく、自ら職員・県民のいる場所に降りていき、彼らと共にあることを志向した。

■新渡戸稲造との出会い

その川西の原点として注目されるのが、学生時代における新渡戸稲造(1862〜1933年)との出会いである。新渡戸は川西が第一高等学校学生の頃、その校長を務めていたが、雑誌『実業之日本』等、当時の「通俗」的読み物への執筆を続けた人物でもあった。

新渡戸のそうしたあり方は、天下に名高い「エリート校」の校長にふさわしくないとして、「識者」に批判されもした。しかし、川西ら新渡戸に師事した学生たちは、その真意に触れて心動かされていた。というのも『実業之日本』には、早くから額に汗して働かねばならなかった若者たちが、人生の指針を仰ぐ手紙を必死に寄せており、新渡戸はそれらに返答すべく真摯(しんし)に向き合っていたからである。

社会的に「高い」地位にあぐらをかくことなく、「時代の陰影」に置かれた人々に寄り添おうとする新渡戸の「低さ」は、日露戦争後に自己形成した川西ら「明治の青年」に深い影響を及ぼした。そこで培われた志こそが、33人目の知事として本県に赴任した川西の礎だった。

以来80年、川西の「低き」まなざしは、私たちが明日の埼玉を思い描く上で、今なお立ち返るべき起点たり得ているのではないだろうか(詳しくは拙稿「川西実三の視座」、『ピューリタニズム研究』九号、日本ピューリタニズム学会、2015年3月を参照)。

=埼玉新聞経済面 県内大学発「経世済民」=