埼玉新聞

 

<高校野球・森士物語7>チームのための退任、優勝インタビューで打ち明けるまでの経緯 いつか言わないと

  • 全国高校野球選手権大会出場を決め選手に胴上げされる森士=7月28日、県営大宮

 就任27年目の2018年春は、県大会で6連覇を果たした。全国高校野球選手権大会にも出場し、監督として夏の甲子園で初の8強。大型右腕の渡辺勇太朗(現埼玉西武)らを擁し、自身の夏最高成績を残した。

■将来を議論

 だが、新チームに代替わりして28年目を迎えると低迷期に入った。18年秋と19年春は、ともに県大会2回戦敗退。監督就任後、初めてノーシードで挑んだ夏の埼玉大会は、4回戦で幕を閉じた。そして、秋の県大会準決勝では花咲徳栄に延長十回の末、1―2で敗戦。4季連続で県大会決勝に進めなかったのは、監督1年目の1992年春から2年目の93年春にかけて以来だった。

 秋の県大会が終了して数日後、学校関係者と進退を話し合うことになった。森の今後の人生設計、チームの将来について議論した。その結果、「そろそろチームのためにも(退任)時期を決めないといけない」(森)と当時の1年生が最高学年となる21年夏を最後にすることを決めた。

■コロナ禍

 監督生活の最終章を歩み始めた矢先、思いもよらぬ出来事が起きた。20年の年明けから、新型コロナウイルスが国内外で流行。春季高校野球地区大会と県大会に加え、夏の全国高校野球選手権大会と同埼玉大会が中止。甲子園への道は、世界的な感染症拡大によって閉ざされてしまう。

 21年2月には、部内でクラスター(感染者集団)が発生。部員53人の半数以上が陽性となり、3月中旬までの約6週間、全体の活動が停止となった。選手が隔離生活を送る中、森は寮内や食堂をアルコールで消毒、清掃するなど奔走した。

 3月下旬に活動が再開されたものの、陽性者には三半規管に影響して体調回復が遅れる選手もおり、感染の有無に関係なく練習が積めなかったため体力が低下。だが、時間は待ってくれない。4月中旬には、春の地区大会が迫っていた。

 急ピッチで準備しなければならない状況。森は「経験したことのないチームづくりだった」と振り返る。「若い頃もここまではしなかった」と、監督生活で最も長い時間グラウンドに立った。これが吉と出る。選手にとことん付き合い、時間を共有したことで距離が近くなり、固い絆が結ばれた。春の大会は1試合ごとに成長し、県のタイトルをつかんだ。

■退任を表明

 監督生活最後の夏がやってきた。埼玉大会は初戦の2回戦で聖望学園に逆転勝ちすると、順当に勝ち上がった。準決勝では春日部共栄に6―1で逆転勝利し、決勝も昌平に10―4で快勝。そして、「いつかは言わないといけない。優勝させてもらったから、ここが一番いい」と試合後の場内インタビューで今夏限りでの退任を明らかにした。

 反響は大きかった。長年のライバルであり、森が師としても慕う春日部共栄監督の本多利治もその一人だ。準決勝の試合後、互いに握手を交わした時、「今度遊びに行きますね」と森に言われ、本多は「もう辞めるんだな」と悟ったという。甲子園出場を決めた直後、森本人の口から発表され、「俺がまだこの年(63歳)で監督をしているのに、辞めるのは早いよ。なんか寂しいな」と本多。多くの高校野球ファンや指導者が、鮮やかな引き際を惜しんだ。

(敬称略)

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