芸術部門
伝統工芸ひとすじに
花輪 滋實(はなわ・しげみ)氏(77)
木工・漆工技術者
木材をろくろで回転させながら刃物で加工する「挽物(ひきもの)」の技で、お盆などの木工芸品を生み出す。優れた技術力は文化財保存に必要として、2021年に国から「表具用木製軸首製作」の技術保持者として認定された。「私は伝統工芸一本やりの人間なんです。自分の『作りたいもの』をずっと作り続けてきた」と語る。
熊谷市で生まれ育った。県立熊谷高校卒業後、家業の木工挽物の道に入り、仏具を作っていた。29歳ごろ茶道を習うと、木工ろくろで製作された茶器に衝撃を受けた。「使いやすくて美しい。こんな挽物の世界もあるのか」と創作の道へ進むことを決意した。
30代半ばで市内に「花輪ろくろ工房」を開き、1998年には日本工芸会の正会員に。花輪さんの手がけるお盆や器などは「用の美」。美しい木目が印象的で、透明度の高い漆で仕上げている。
元熊谷市美術家協会会長。県展の審査員を務めるなど、地域の美術発展にも尽力する。「僕にとって埼玉文化賞はすごく重い賞。木工挽物に光を当て、広めていきたい」と話した。
詩に詠む命の美しさ
北畑 光男(きたばたけ・みつお)氏(78)
詩人
「詩を書くことは自分を見つめ直し、自分を発見すること」という。これまでのさまざまな体験が血肉となって紡いだ詩は「命の美しさ、悲しさ」を表している。
岩手県の山間地に生まれ、父が働いていた炭鉱の閉山とともに家族で盛岡へ。父は病に倒れ、新聞配達などをしながら苦学して北海道江別市の酪農学園大学へ。卒業後は岩手県や埼玉県の高校で教壇に立ち、畜産や生物を教えた。
詩を書き始めたのは大学在学時。岩手県の高校に勤務していた時から詩集が高い評価を受けた。26歳の頃に埼玉に移り、秋谷豊さん主宰の「地球」の同人になる。その後、富田砕花賞、丸山薫賞などを受賞。埼玉詩人会会長や日本現代詩人会理事長も務めた。
「自分一人で生きていると思っていない。皆さんに支えてもらって、ここまできた」。昨年末に脳内出血で入院したが、回復した。「生かされている以上、皆さんのお役に立てれば」と話す。
最近は地元・上里町の近くの神川町の冬桜を詩に詠んだ。夏の猛暑で枯れかけた枝に咲いた花。そこにひたむきな命の美しさを見たという。
教育部門
栄一翁の精神 教育に
小柳 光春(こやなぎ・みつはる)氏(74)
元深谷市教育委員会教育長
「私が受賞していいのかという思いはあるが、これまでやってきた仕事は先輩や後輩、仲間に恵まれた」と恐縮しながら受賞の喜びを語る。
小川町出身。中学校時代の恩師から「教員に向いている」と勧められたこともあり、大学卒業後、公立小学校教諭に。深谷市立藤沢小学校校長、県教育局の市町村教育課長、生涯学習部副部長、市町村支援部長などを歴任した。2010年には深谷市教育委員会委員長に就任し、今年3月末まで14年にわたって務めた。
新1万円札の肖像に採用された同市出身の実業家、渋沢栄一が生涯を貫いた精神を基本理念に据えた市教育振興基本計画「立志と忠恕(ちゅうじょ)の深谷教育プラン」を策定し、さまざまな施策を展開。特に学校教育の面では、栄一の心を受け継ぐ教育の推進を目指した。「栄一翁の精神は教育の目標と一致し、生き方の道しるべとなった」
半世紀以上にわたって教育行政に携わってきた。「教師は子どもの最大の教育環境。子どもは正面から向き合えば必ず応えてくれるし、自分も成長する」と後輩たちにエールを送った。
農林部門
苗木生産携わり66年
滝田 早苗(たきた・さなえ)氏(84)
元県山林種苗協同組合理事長
スギやヒノキの苗木作りに携わって66年のキャリアを誇る。「まだまだ現役で、それなりにやっている」とにこやかに語る。
飯能市双柳地区に生まれた。県立豊岡実業高(現・豊岡高)を卒業後、家業の苗木作りに取り組んだ。これまでに生産した苗木は300万本(推計)を超え、埼玉の山林の約1千ヘクタール(同)に植栽されたという。
苗木は種を植え付けてから2~3年で出荷する。以前は畑をメインにして育てていた。「双柳の土地に、あまり地力はない。逆に細かい根が出て、山では成長が良くなる」と説く。10年ほど前からはコンテナでの生産を取り入れている。
1980年に県山林種苗協同組合の理事に就任。スギ花粉症対策として、花粉が少ないスギの苗の供給体制を築いた。2004~22年には理事長を務め、生産者の育成などに力を注いだ。
バブル景気を経て、平成の半ばごろから原木の売れ行きが下がった。苗木作りをやめる生産者も相次いだ。「もっと県内で苗木生産を増やし、地産地消ができるといい」と展望を語る。
商工部門
中小企業守り発展を
西村 耕一(にしむら・こういち)氏(77)
秩父商工会議所会頭
「事業者に活力を与え、地域を元気にすることが私の一番の使命」。砕石業の両神興業(秩父市)3代目社長として、1995年から秩父商工会議所の議員に就き、会員事業所の経営支援事業に尽くす。2001年に「西村政経塾」を創設し、毎月の勉強会で若手経営者らに経営理念や後継者育成のノウハウを伝授。県商工会議所連合会副会長として、県全体の商工業の改善発達にも寄与する。
小鹿野町両神小森に採石場を持つ両神興業は1966年に
創業。「採石・砕石業に携わるからには、一生涯懸けて地元に貢献し続ける義務がある」という理念は、西村さんの父で初代社長の故・勝一さんから、全社員へと確実に受け継がれている。
近年、消滅可能性自治体に秩父市が分類されたことを受け、「地元の中小企業を守り、発展させなければならない」という使命感は、さらに重みを増す。「思いがけない受賞で非常に驚いているが、商工会の若い会員の励みになればうれしい。地域の活性化はアイデアと実行力が最重要。これからもみんなで秩父を守っていく」
社会文化部門
埼玉の新しい魅力を
近藤 良平(こんどう・りょうへい)氏(56)
彩の国さいたま芸術劇場芸術監督
国内有数の舞台芸術専門劇場の彩の国さいたま芸術劇場(さいたま市中央区)。2022年に芸術監督に就任以降、「開かれた劇場」を目指し、独創的な取り組みを行ってきた。「特別ではなく、劇場がみんなの日常の一部になってほしい」と話す。
1996年、ダンスカンパニー「コンドルズ」を立ち上げた。きさくな人柄と型破りなアイデアで、幅広い世代から人気を集めるダンサーで振付家。同劇場では「クロッシング」をテーマに、住民が気軽に舞台芸術を楽しむイベントなどを企画。昨年、話題となったのは、近藤さんが県内を巡り、舞台作品をつくる「埼玉回遊」。交流した県民たちと、行田の足袋といった埼玉の文化を〝クロス〟させた舞台は好評で、埼玉の新しい魅力を発信した。
文化賞受賞については「さまざまなアートの試みを実践してきた。『これからもやっていいんだ』と思えて、すごく力になる」と顔をほころばせる。東京都出身で、「住んでいないけれど、埼玉に来るとほっとする自分がいる。今や埼玉の方がホーム」と笑った。
スポーツ部門
競技通じ理解深めて
岸 光太郎(きし・こうたろう)氏(53)
車いすラグビー日本代表HC
パリ・パラリンピックで車いすラグビー日本代表を初の金メダルに導いた。今夏の快挙は大々的に報じられ、「車いすラグビーを知ってもらうことで、障害者に対する理解が深まってほしい」と願う。
さいたま市出身。選手として2度パラリンピックに出場。2016年のリオデジャネイロ大会では銅メダル獲得に貢献した。前任ヘッドコーチ(HC)が健康上の理由で退任し、昨年8月にHCに就任。「基礎の部分を大切に、仲間を信じていこうと伝えた」。メンバーは男女混合で、年代や障害の程度は幅広い。チームプレーを重んじ、互いの障害への理解を促した。
大学4年の1995年1月、バイク事故で頸椎(けいつい)を損傷。リハビリに励む中で車いすラグビーと出合い、四半世紀が過ぎた。「競技自体の面白さ。それと日本全国に友達ができた」と活力の源を語る。
所属クラブの「AXE」では選手として活動。4年後のロサンゼルス大会に向けて選手の発掘にも余念がない。「障害を負っていてもスポーツができるという一つの光に車いすラグビーがなってくれたら」と話した。
スポーツ部門特別賞
困難乗り越え頂点へ
元木 咲良(もとき・さくら)氏(22)
レスリング
幾度の困難を乗り越え、今夏のヒロインへと成長した。8月のパリ五輪でレスリング女子62キロ級の金メダルを獲得。「オリンピックまでたくさんのけがや挫折を味わった。多くの人に支えられて取れた金メダルを埼玉文化賞という光栄な賞で評価されてうれしい」と喜んだ。
シドニー五輪日本代表の父・康年さんの影響で3歳で競技を始めた。埼玉栄高進学後はけがに悩まされ、3年時の全国高校総体は初戦でパリ五輪53㌔級優勝の藤波朱理に敗戦。「自分の弱さに自信をなくしたが、不器用だからこそ人一倍練習した」と話す。
レスリング人生の転機となったのは育英大2年の夏。右膝前十字靭帯(じんたい)の断裂で8カ月間、戦線を離脱した。練習ができない間は、競技のビデオ研究を重ねた。理論的に捉えたことで「復帰後はレスリングが楽しくなり、勝手に結果がついてきた」。
次の目標は来年10月のU―23(23歳以下)世界選手権での優勝。「もっとレスリングを追求する。挑戦し続ける限り、可能性があると示したい」。22歳の成長は止まらない。
才能開花し世界魅了
湯浅 亜実(ゆあさ・あみ)氏(25)
ブレイキン
8月に行われたパリ五輪で初めて開催されたブレイキンで金メダルに輝いた。偉業達成後には満面の笑みだったが、「本当だったら泣きたいぐらいうれしいはずなんだけど、まだ実感できていない。ちょっとふわふわという感じ」と自身が成し遂げたことにうっとりしていた。
川口市出身。ダンサー名・AMI。小学1年の時に4歳年上の姉、亜優(ダンサー名AYUMI)さんの影響でダンスを開始し、小学5年生の時に本格的にブレイキン競技を始めた。小刻みなステップや切れ目のないムーブを武器に才能を開花させた。2019年に行われた第1回の世界選手権で初優勝を飾るなど実績を重ねると、一躍金メダル候補になった。
五輪決勝では、わずかなミスもなく完璧な演技を披露し栄冠を手に入れた。10月に県スポーツ賞会長特別賞を受賞した際には「金メダルが取れたこともうれしいが、家族、友達、周りの方のサポートを含めてすごくうれしい」と周囲への感謝を口に。「新しいものに挑戦し自分の幅を広げたい」。女王はこれからも世界を魅了する。
声援背に栄光つかむ
田中 愛美(たなか・まなみ)氏(28)
車いすテニス
大きな声援を背に受け、世界一の栄冠をつかみ取った。9月に行われたパリ・パラリンピックの車いすテニス女子ダブルスで金メダル。「自分一人のメダルではない。原点となった埼玉で伝統ある賞に選ばれてうれしい」と喜ぶ。
熊本県出身。中学の部活動で硬式テニスを始めた。高校1年の時に自宅で転落事故により脊髄を損傷。部活動の監督の勧めで車いすテニスへ。最初は「今までできていたことができずに苦しんだ」と、素早い動きができず苦戦。週3日、放課後に所沢市の国立リハビリテーションセンターに通って練習を積んだ。
パリの地でペアを組んだ上地結衣は、競技に引かれたきっかけの選手だった。けがした直後の冬、上地が出場した全日本マスターズを観戦。「本格的にやれば自分も高度なプレーができるかもしれない」と刺激を受けた。パリパラ決勝で3時間に及ぶ激闘を制すと涙を浮かべて抱擁した。
2026年には名古屋でアジアパラ競技大会が開催される。「一緒に戦ってくれる家族や友人、応援してくれる人と喜びを分かち合いたい」と飛躍を誓った。