埼玉新聞

 

涙こぼれる…水欲しがる少年に祖母が与えると息絶えた 原爆の惨状 責めた祖母の思い、男性が引継ぎ後世へ

  • 1945年8月6日の日記。日記の原本は今年10月、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に寄贈された(北村俊典さん提供)

  • 交流会で講演する北村俊典さん(右から2人目)=5日午後、さいたま市浦和区のさいたま共済会館

 県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の交流会が5日、さいたま市浦和区で開かれ、同会理事で胎内被爆2世の会社員北村俊典さん(44)=同市浦和区=が講演した。広島で被爆した祖母は、80冊を超える日記や体験記に被爆の実相を書き残していた。北村さんは「祖母が伝えねばと思ったことを途切れさせるわけにはいかない」と話し、被爆の語り部となる決意を示した。

■被爆した祖母と母

 北村さんの祖母今井泰子さんは当時、爆心地から北に約9キロの緑井村(現広島市安佐南区)にある夫の実家の今井病院に疎開していた。軍医の夫は広島陸軍病院から現在の北九州市の部隊に転属していた。1945年8月6日の原爆投下後、多くの負傷者が今井病院に運び込まれた。不眠不休で救護活動を手伝った泰子さんは被爆し、北村さんの母親(75)も胎内被爆した。

 8月6日の日記には、「白銀の尖光(せんこう)がパッと光ったと思った途端、地ひびきと共に家がゆれ―」「患者がごろごろと寝て、うなり、わめき、泣く有様は全く此の世乍(なが)らの生(き)地獄としか思はれない」と記されている。8月7日も詳細に書き残しているが、記載されていない体験があった。

■50年後の体験記

 泰子さんは被爆50年となる95年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に被爆体験記を寄せていた。「今こそ伝え残さなければ」とした体験記によると、8月7日朝、13歳の少年が待合室に倒れているのに気付く。首や上半身が焼けただれた少年は「僕は一番初めにここに来たのですがまだ番がこないのでしょうか」と聞いた。泰子さんが「ごめんね、おそくなって」と応えると、少年は「すみませんが水を一杯下さい」と言った。泰子さんは台所に走りコップ一杯の水を渡す。少年は水を一口飲んで息が絶えた。

 「涙がもんぺの上に滴り落ちました。『お母さん』と、どんなに呼びたかったろうに」「原爆の悲惨な体験の中で一番忘れられないことです。此の事を人に話す時、私は涙と共に、反戦の誓いを心に刻んでいます」と記している。

■一度だけ語った

 北村さんが中学生の頃、泰子さんは一度だけ被爆体験を語ろうとした。話している途中で感情が高ぶり、涙を流し始めた。北村さんは「当時は何を話しているのか分からなかった」と振り返る。

 泰子さんは2017年2月、97歳で死去した。北村さんは翌18年、泰子さんの日記を伝えていこうと、しらさぎ会に参加する。昨年になって泰子さんの日記や被爆体験記を読み返し、「言葉にするまでに50年の月日がかかった」意味の重さに気付いた。

 「水を飲ませたことで、少年の死に責任を感じていたのではないか。同じ年代となった私に勇気を振り絞って話したのに、うまく受け止めることができなかった」。被爆体験の継承に失敗したという悔いは今も残っている。

 北村さん自身は原爆で傷ついたことは何一つなく、体験をしていないだけに、原爆被害を語ることに迷いもある。泰子さんの被爆体験を継承できなかった後悔を出発点として、「祖母の思いに寄り添って、伝えねばという思いを途切れさせるわけにはいかない」と話していた。

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