埼玉新聞

 

娘の名誉回復とストーカー事件撲滅を目指し、講演続ける父 報道被害「消えない」 桶川ストーカー殺人25年 遺族と記者、それぞれの使命

  • 詩織さんの仏壇の前で思い出を語る父親の猪野憲一さん(左)、母親の京子さん=10月22日、上尾市

    詩織さんの仏壇の前で思い出を語る父親の猪野憲一さん(左)、母親の京子さん=10月22日、上尾市

  • 詩織さんの仏壇の前で思い出を語る父親の猪野憲一さん(左)、母親の京子さん=10月22日、上尾市

 猪野詩織さんは上尾市に住む21歳の大学生。はっきりした性格は父親似で、大人にも子どもにもハキハキとあいさつする人気者だ。若い女性らしく流行には敏感で、高校時代、スカートの長さが少々気になった母親も、時には詩織さんのファッションをまねする仲良し親子。目尻を下げて話す両親からは、深い愛情が伝わる。しかし、父の憲一さん(74)は「詩織は3度殺された」と話し、「1度目はストーカー、2度目は警察、そして3度目はメディアだ」とまな娘を奪われた悲しみを抱き続ける。

■メディアスクラム

 1999年10月26日、通学途中の詩織さんが、JR桶川駅前で命を落とした「桶川ストーカー殺人事件」から25年が経過した。詩織さんは約8カ月間、元交際相手の男からストーカー行為を受け、自宅周辺や憲一さんの勤務先に中傷ビラをまかれるなどの被害を受けた。警察は対応を怠り、詩織さんが出した「告訴状」の供述調書を改ざんしていたことなどが後に発覚した。

 事件後約2カ月間、猪野さんの自宅には報道陣が詰めかけた。葬儀場にひつぎを運ぶことすら困難な状況に遺族は憤り、メディアを拒絶。しかし、当時週刊誌記者だった清水潔さんだけは迎え入れた。

 徹底した取材で犯人を割り出し、一連の真実を著書「桶川ストーカー殺人事件―遺言」(新潮文庫)にまとめた清水さんは取材に「小さな声を聞き、拡声器となることがメディアの役割」と語った。清水さんが遺族への取材がかなったのも、詩織さんから「遺言」を託された親友らの切実な訴えに耳を傾け、信頼を築いたためだった。遺族にとっても、清水さんとの出会いが報道への信頼を取り戻すきっかけとなった。

 清水さんは猪野家で報道陣からマイクやフラッシュを向けられ、「メディアスクラムに囲まれる側はこんなに怖いのか」と痛感。さらに、当時「ニセ刑事」が告訴状取り下げを求めたとされていたが、本物の刑事だったと知った。

 遺族だけでなく、犯人にも「直接『どう思うのか』と聞きたい」と追い続けた。「報道は公益のため、なぜ事件が起きたかを追究する。被害者には救済にならないが、人間として寄り添うことは必要」と強調。「毎日、地元紙にしかない情報があるかと思い埼玉新聞を買ったが、良くもひどくもなく、横並びの報道だった」と回想し「当時の対応を顧みて研修などを行わなければ、同じことが繰り返されるだろう」と指摘した。

■娘の名誉回復へ活動

 事件後、過熱した報道は「ブランド好きの女子大生」のイメージをつくり上げ、埼玉新聞にも詩織さんの遺留品として「プラダ製のリュック」などの文言が載った。母の京子さん(74)は「ブランドものといっても、一生懸命アルバイトして買ったもの。それ以外は普通の服を上手に着こなしていた」と遺影を見つめる。

 憲一さんも「報道で娘の名誉はずたずたにされた」と話す。詩織さんが通った大学の学生からは「祖父母から『悪い子が通う大学なのでは』と言われた」と聞く。「誰もテレビや新聞がうそを流すとは思わない。一度貼られたレッテルはずっと消えない」。詩織さんの名誉回復とストーカー事件撲滅を目指し、憲一さんが各地の警察官らを対象に行う講演は120回を超えた。

 事件から25年を迎えても、憲一さんに「区切りという感覚はない」。ある講演では、通常開かない扉が勝手に開き「詩織が聞きに来た」と感じた。「娘を殺された親として、ストーカー事件が起きないよう活動するのが使命。事件が起きそうな時には、隠すのではなく、警察や家族、友人、行政、弁護士などさまざまな人に相談してほしい」と話し、講演の時などに身に着ける詩織さんから贈られたネクタイピンをそっとなでた。

 ◇

 桶川ストーカー殺人事件 1999年10月26日、JR桶川駅前で大学生の猪野詩織さん=当時(21)=が、元交際相手の男のグループに刃物で刺されて殺害された。上尾署がストーカー被害の相談を放置し、書類改ざんなどの捜査怠慢も発覚した。元交際相手の男は自殺し、犯行に関わった他の男らは実刑判決を受けた。遺族は県(県警)に国賠訴訟を起こし、550万円の賠償が命じられたが、殺人と捜査怠慢の因果関係は認められなかった。事件をきっかけに「ストーカー規制法」が2000年に成立、施行された。

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