埼玉新聞

 

秩父市の吉田中、歌謡曲調の校歌なぜ? 全国で「唯一無二」 フォークダンス風の振り付けも

  • 三鷹淳歌唱の「吉田中学校校歌」のレコードジャケット(刑部芳則さん所蔵)

    三鷹淳歌唱の「吉田中学校校歌」のレコードジャケット(刑部芳則さん所蔵)

  • 三鷹淳歌唱の「吉田中学校校歌」のレコードジャケット(刑部芳則さん所蔵)
  • 刑部芳則さん
  • 1975年11月25日に行われた吉田中学校校歌発表会(秩父市立吉田中学校所蔵)
  • 吉田中学校校歌の振り付け(秩父市立吉田中学校所蔵)
  • 吉田中学校校歌の歌碑=秩父市下吉田(刑部芳則さん撮影)

 埼玉県民の皆さんは、秩父市立吉田中学校の校歌はご存知だろうか。何も知らないで聴いた人は、おそらく校歌だとは思わず、歌謡曲だと感じるに違いない。なぜなら、昭和38(1963)年の舟木一夫「高校三年生」、同39(1964)年のペギー葉山「学生時代」のような旋律の校歌だからである。日本全国の校歌を調査しても、歌謡曲のような吉田中学校の校歌は非常に珍しい。

 吉田中学校は、昭和42(1967)年4月に旧吉田中学校と上吉田中学校が統合され、6月20日に新校舎が完成することで開校した。翌43(1968)年4月には太田部中学校も統合された。ここで新しい校歌が課題となった。昭和45(1970)年5月25日に校旗・校歌の制定委員会を設定し、8月31日には校歌制定協賛会が結成された。校歌をレコード化するには多額な費用を要するため、「会費は一口千円」を募金した。「町民すべて会員となり、あなたの校歌にしていただきたい」との運動が行われた(『よしだ広報』1970年9月15日)。

 作詞には父親が上吉田の出身であった作詞家西沢爽に依頼された。西沢は校歌の作詞に、秩父連峰の下で明るく勉強に励む前向きな姿勢、父母と学校という人生には「ふるさとが二つある」こと、卒業後も学友を忘れない気持ち、郷土の学校を懐かしむ心を織り込んだ。作曲については「どこの学校にもあるような応援歌だか校歌だか、わからないようなもの、あるいは似たりよったりの格式ばった曲でなく、これからの時代を先駆する若々しい曲を付けてもらいたいと思っています」「作曲は和田君を起用したく思います」と書き残している(「西沢爽の手紙」秩父市立吉田中学校所蔵)。

 日本コロムビアレコードには大御所の作曲家古関裕而がいたが、新人の和田香苗を抜擢したのは西沢の意向によるものであった。協賛金は合計97万6千円が集まり、校歌吹込料に15万4千円、作曲料に15万円、作詞料に16万円、振付料に2万円、レコード製作費に23万4千円、歌碑製作費に8万円などが捻出されている。これだけの費用を公立の学校で用意することは容易ではなく、昭和時代にレコード会社のオーケストラの伴奏で歌手が録音した小学校、中学校、高等学校の校歌はほとんどない。

 さらに「吉田中学校校歌」が珍しいのは、コロムビア専属の榊原保夫によってフォークダンス風の振り付けがつけられていることである。男子生徒と女子生徒が一列円陣を作り、振付けに合せて踊ることができる。コロムビア専属の三鷹淳が歌唱した「吉田中学校校歌」と、行進曲風に編曲した演奏だけの「吉田中学校行進曲」をカップリングしたレコードは、昭和45年11月20日に完成した。11月25日には西沢と三鷹を招いて校歌発表会が開催され、歌碑の除幕式が行われた。

 これを受けて西沢は「数少ない自信作の一つを捧げ得た感激に浸っております」「明るく平易で若い律動のある校歌はそう『ざら』にあるものではありません」「少年時には覚えていたはずの校歌が今どうしても思い出せません。校歌とはそんなものであってはならない。忘れようとして忘れられないものでなければ」と述べている(『よしだ広報』1971年1月15日)。歌謡曲調で振り付けのついた「吉田中学校校歌」は、日本で唯一無二の校歌といえる。これからも歌い継いで欲しいし、振り付けダンスが復活することを願いたい。

 吉田中の校歌は同校ホームページから聴くことができる。

■刑部芳則さん

 おさかべ・よしのり 東京都生まれ。日本大学商学部教授(日本近代史)、NHKの大河ドラマ「西郷どん」、連続テレビ小説「エール」「ブギウギ」「虎に翼」「あんぱん」の風俗考証や制服考証を担当。著書に『昭和歌謡史』(中公新書)、『セーラー服の誕生』(法政大学出版局)など多数。
 

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