埼玉新聞

 

「不発弾のような物が見つかった」…埼玉にあった軍の飛行場 現在の2市1町にまたがり、一時は3千人がいた飛行場 訓練中の墜落事故などで40人以上の死者も 現在、一部は工業団地に/埼玉県内に残る戦争遺跡(1)

  • 児玉工業団地内にある「児玉飛行場跡之碑」(中央奥)や児玉飛行場を空襲した爆弾のかけら(手前左)=3月28日、上里町嘉美

    児玉工業団地内にある「児玉飛行場跡之碑」(中央奥)や児玉飛行場を空襲した爆弾のかけら(手前左)=3月28日、上里町嘉美

  • 児玉工業団地内にある「児玉飛行場跡之碑」(中央奥)や児玉飛行場を空襲した爆弾のかけら(手前左)=3月28日、上里町嘉美
  • 【地図】本庄市(背景白)
  • 【地図】上里町(背景白)
  • 【地図】神川町(背景白)

 今年は戦後80年を迎える節目の年。戦争を実際に経験していた世代が少なくなり、当時の記憶を次世代に伝えていくことが課題になりつつあるが、県内には軍需工場、飛行場、陸軍学校分教場など戦争に関係する遺跡が点在している。県内に残る施設はどのような役割を果たしたのか、関係者たちの話を交えながら紹介していく。

■「八町八反の飛行場」

 2016年5月6日午前10時ごろ、本庄市共栄の市道で、道路の側溝改良工事を行っていた建設会社作業員から、「不発弾のような物が見つかった」と110番があった。不発弾は米国製250キロ爆弾で、同年6月25日に陸上自衛隊の不発弾処理隊が不発弾の撤去作業を実施。現場は工業団地に隣接し、戦時中に児玉飛行場があった場所だった。

 児玉飛行場は現在の本庄市、上里町、神川町にまたがって造成され、1944年3月に完成した。当初は熊谷陸軍飛行学校の分校である児玉分教所があり、閉校後に飛行隊の基地として運用された。用地は「八町八反」と呼ばれる雑木林が大部分を占めていて、地域住民たちからは「八町八反の飛行場」と呼ばれていた。太平洋戦争終結の日、昭和天皇の玉音放送に至るまでの緊迫の24時間を克明に描いた映画「日本のいちばん長い日」にも登場する。

 操縦士の訓練を受けていたのは文武両道のエリートだったが、訓練中に死傷事故も多発。町郷土資料館の元館長の桑原正明さん(70)の調べでは、墜落事故などで40人以上の死者が確認されている。「シビアな訓練をしていたし、使い古した機体だったこともあり、事故が起きやすかったのではないか」と指摘する。

 桑原さんは同町出身。児玉飛行場跡地は戦後に開拓農地となったが、開拓で入ってきた世代の子どもたちが同級生にもいた。町役場に入庁後、児玉飛行場について資料を調べることに。児玉飛行場には一時約3千人がいたとみられ、当時を知る関係者からも話を聞くことができた。

 児玉飛行場があった場所の一部は現在、児玉工業団地になっている。同団地内の一角には関係者が資金を集めて建てた「児玉飛行場跡之碑」や児玉飛行場を空襲した爆弾のかけらなどが存在する。一方で、児玉飛行場にいた関係者はほとんどがいなくなり、当時のことを次世代に伝える人がいないのが現状でもある。

 桑原さんは退職した現在も、これまで調べてきたことを改めてまとめ直している。桑原さんは「児玉飛行場のことを知る人たちが少なくなってきたので、今後のためにも資料として残していきたい」と話していた。

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