埼玉の赤い「かかし」といえば…「街の製麺屋」からソウルフードに 日常食を地道に提供 山田うどん
■ロードサイドの食支え
郊外の街道を車で走ると、遠目でも分かる黄色地に赤い「かかし」の看板。1960年代末から見慣れた「山田うどん」のある風景だ。
山田食品産業の前身は35年、所沢市日吉町で産声を上げた。初代の山田量輔が「安く旨(うま)い」を信条に手打ちうどん専門店を創業。5代目の現社長、山田裕朗(60)は「裕福な家じゃなかったので、腹いっぱい食べたい思いがあった。だから、お客さんにも満腹になってほしいと考えたようだ」と言う。
一番人気は、かき揚げ丼にうどんかそばが付くセットで、価格は800円。セットで付く麺類も1人前の分量があるので、ボリューム満点。大型トラックの運転手や部活帰りの高校生など、体力勝負の客たちの胃袋を満たす。
所沢周辺は小麦の産地でもあり、当初は「街の製麺屋」を本分としていた。飛躍に結び付けたのが、4代目社長の山田裕通だ。65年に直営の山田うどん1号店を所沢市金山町に開く。同年に本社を同市上安松の現在地に移し、翌年に本社前にドライブイン型店舗をオープン。日本初とされるうどん店のチェーン化や、米国製の回転看板の導入など先駆的な取り組みを行った。
しかし、裕通の長男の裕朗は「(成功は)日本や埼玉の成長と重なっただけ」と、周到な経営戦略を否定する。店舗数の拡大期は、日本の経済成長やモータリゼーションの進展と重なる。都心外縁部で道路網が整備され、首都圏の人口は急増。埼玉県の推計人口も66年に308万人余りだったのが、84年には約572万人に。18年間で2倍近くに膨らんだ。
2018年に山田うどん食堂に屋号を変更し、新業態のタンメン店を含め154店を関東1都6県に展開。そのほとんどが郊外のロードサイド店だ。「高級店なども試してみたけれど、うちは気取ったものは駄目だよ」。新住民が急増した戦後埼玉の日常食は、近年“ソウルフード”とも呼ばれるようになった。
昭和50年代から、子育てが終わった女性店長を登用している。ゆで麺を調理しているうどんは、やわらかさが特徴。こしの強い麺がもてはやされても迎合しない。「お母さんが家で作るようなうどんを出す、毎日来ても飽きない店だからでは」と、裕朗は人気の秘密を探る。
コロナ禍で時短営業はしたが、休業はしなかった。「常連さんから感謝の手紙を頂いた。日常食を地道に提供していれば、いいことがあるんですね」と笑った。(敬称略)
■愛嬌が熱烈ファン生む
近年、「山田者(やまだもの)」と呼ばれる山田うどんのコアなファンが生まれ、さまざまな展開が見られている。代表例が2012年に出版されたライター北尾トロ(65)とコラムニストえのきどいちろう(63)の共著「愛の山田うどん 廻(まわ)ってくれ、俺の頭上で!!」(河出書房新社)だ。
現在は日高市に住む北尾だが、東京都日野市で過ごした高校時代は近所の山田うどんに通った。「ほっとする身内みたいな味。ランキングの要素だけで語るのはどうなのか」と、えのきどと再評価を始めた動機を明かす。
18年に屋号が山田うどん食堂に変更され、おなじみの回転看板は姿を消していくが、「埼玉発祥のチェーン店は日本のロードサイド文化を相当担ってきたが、この回転看板のある山田うどんはギンギンに目立っていたはず」と言う。
14年に第2弾が刊行され、山田食品産業の本社でファンイベントが実現。「山田者」約200人が集まった。19年公開の映画「翔(と)んで埼玉」にも山田うどんが登場するなど、存在感を増している。北尾はファンの一人として見守る。「山田は広告代理店を使わないから、隙だらけ。でも、その愛嬌(あいきょう)が応援したくなる理由なのでは。背伸びせず、わが道を行ってほしい」