埼玉新聞

 

叫んだ母、飛び起き…窓が粉々に 震えた空襲、焼けた人の行列…胸だらりと出た女性、子と手つなぎ放心状態

  • 疎開先の熊谷で父がくれた千代紙を貼って作った台紙を膝の上に置き、当時の体験談を語る掘越美恵子さん=4日、羽生市本川俣の自宅

    疎開先の熊谷で父がくれた千代紙を貼って作った台紙を膝の上に置き、当時の体験談を語る掘越美恵子さん=4日、羽生市本川俣の自宅

  • 疎開先の熊谷で父がくれた千代紙を貼って作った台紙を膝の上に置き、当時の体験談を語る掘越美恵子さん=4日、羽生市本川俣の自宅

 「戦争は国のためではなく私欲。語り継いでいくことで世の中が変わる一つの転機になれば」。終戦前日の1945年8月14日夜、米軍機の焼夷(しょうい)弾が埼玉の北都に降り注いだ熊谷空襲。中心市街地の3分の2を焼き、266人が犠牲となった。千葉県・市川から熊谷に疎開し、当時10歳だった掘越美恵子さん(88)=羽生市本川俣=にとって、東京大空襲に続き2度目の空襲経験だった。悲惨な体験は78年が経過した今も胸に刻み込まれている。

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