埼玉新聞

 

思ってたのと違う…ショック受けた婿、今や「代表」に 足袋のまちのソウルフード脈々と 行田の「フライ」

  • フライを焼く飯嶋隆夫さん。生地に行田在来の青大豆の粉末を入れ、もちもち感を出している=埼玉県行田市本丸のたかお家

    フライを焼く飯嶋隆夫さん。生地に行田在来の青大豆の粉末を入れ、もちもち感を出している=埼玉県行田市本丸のたかお家

  • たかお家のフライ

    たかお家のフライ

  • フライを焼く飯嶋隆夫さん。生地に行田在来の青大豆の粉末を入れ、もちもち感を出している=埼玉県行田市本丸のたかお家
  • たかお家のフライ

 焼き上がりのソースの香りが鼻をくすぐる。「食べたくなったら自分で作る。具は裏の畑のネギでいい」。田部崇子(82)は白い歯を見せた。

 埼玉県行田市に接する熊谷市下川上の農家。夫は他界し、3人の子も独立。小さな畑で好きな野菜作りにいそしむ。

 自身も農家育ち。幼い時のフライは姉たちが焼いてくれた。今は豚肉やキャベツを入れたりもするが、最も食べ慣れた味はネギのフライだ。

 「行田の人にとってフライはソウルフードなんです」と話すのは、同市本丸でフライ店「たかお家(んち)」を営む飯嶋隆夫さん(73)。市内のフライ店などでつくる「FZ行田フライ・ゼリーフライ研究会」の代表も務める。

 小麦生産の盛んな北埼玉地域の農家で手軽な食事として親しまれていたフライが、商品として普及するのは大正時代。「足袋のまち」として繁栄していた行田の足袋工場で働く女工さんたちに大ヒットしたのがきっかけだ。

 本庄出身の飯嶋さんは22歳で結婚、行田に移ってきた。新婚当時、妻の母親に「お昼はフライでいいかい」と聞かれ、揚げ物と思っていたところへフライが出てきた時のショックは忘れないという。

 行田市民にとってフライは立派な食事だ。若い男性は大判のフライとソース焼きそばのセットを平らげ、古い店では近所のお年寄りがお茶を飲みながらフライをつまむ。

 土曜の学校が半日授業だった頃、フライは子どもたちが家で食べる昼食の定番だった。お使いで買ってきた温かい新聞紙の包みから立ち上るソースの香りを懐かしく思い出す人も多いだろう。

 行田の目抜き通りに面し、観光スポットの忍(おし)城址にも近い飯嶋さんの店は観光客が8割。フライ1枚を分け合うグループも少なくない。「ついつい、あれで足りるのかなと思っちゃってね。こっちはあくまで食事と思ってるもんだから」。そう言って笑う飯嶋さんのフライはネギと豚肉で焼き上げ、ソースでシンプルにまとめるのが身上だ。

 崇子の孫の陽莉(ひより)(9)が学校から帰ってきた。近所に住む次男の長女。母親が勤めから帰るまで崇子の家で過ごすのを日課にしている。今では成人したほかの孫たちも崇子は何かと面倒を見てきた。

 テレビを眺める陽莉にお手製のフライを出した。崇子の家で陽莉が口にするのはカレーとうどんだけ。初めてのフライを「うまい」と頬張る陽莉に、崇子は「そうかい。じゃあまた作ってやろう」。日焼けした顔をほころばせた。(敬称略)

■揚げ物ならぬ“粉物”

 フライといっても揚げ物ではない。緩めに溶いた小麦粉を鉄板の上で伸ばし、ネギや豚肉を加えて焼く粉物。焼き上がりにソースを塗るのが一般的だが、しょうゆ味のたれで味付けする店もある。

 名前の由来は「フライパンで焼くから」説から、富よ来いを意味する「富来」、行田が布地の産地だったから「布来」という語呂合わせ説も。

 行田おもてなし観光局によると、市内では約20店のフライ店が営業。忍城で使われていた鐘楼がシンボルのかねつき堂(本丸)、秩父鉄道行田市駅に近い深町(忍)、水城公園のほとりで親しまれた売店を移転した駒形屋(本丸)など古い店が多い。フライで焼きそばを包んだり、卵やチーズ、コーンをトッピングしたりとスタイルもさまざま。

 その中でも90年を超える歴史を刻み、市民や観光客に親しまれたのが天満にあった古沢商店(閉店)。1925(大正14)年に開店した初代店主の古沢む免(め)さんは98年1月に105歳で亡くなる直前まで店に出ており、跡を継いだ娘の芳子さんも90歳近くまでフライを焼いていた。

 古沢商店のフライは、特別にあつらえた木製のふたで上からぎゅっと押し付けて焼き上げた。長年使い込んだふたは芳子さんの指の跡でへこんでいた。

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