<埼玉西武だより>現役時代から練習の虫 3軍統括コーチ・田辺徳雄、下から突き上げる選手を1軍の舞台へ
今季から新設した埼玉西武の3軍。その中で統括コーチとして選手育成に当たるのが、田辺徳雄だ。1997年当時は31歳。中堅に差し掛かっていた田辺は、チームが著しい世代交代をする中で90年代前半の黄金期を知る貴重な存在だった。
「あの頃は、ちょうど同じ遊撃手の松井2軍監督がレギュラーになった時かな。『もう交代』だなと思っていたよ」と笑う。一方で「年齢を重ねるごとに、練習量は増やしたよ」。午後6時開始の試合でも一番乗りで球場に入り、正午ごろから試合に備える姿があった。
代打出場が多くなっていた97年。リーグ優勝が決まった後、田辺は教育リーグに参加するため、若手に交じって高知にいた。数試合、実戦を積みバットは好調。満を持して日本シリーズに出場するため帰京した。
「俺の役割は、対左投手。だから、まずは初戦に照準を合わせていた」
予想通り第1戦のヤクルト先発はエース石井。気合十分だったが、スタメン表に自分の名前はなかった。「あの時は、あれって思ったよ(笑)」
第2戦、同点で迎えた最終回のマウンドには左腕山部。田辺はここで代打として打席に向かうもすかさず右の伊藤智に交代。「俺にも代打が出るな」とベンチに戻ろうとしたが、東尾監督のジェスチャーは「そのまま行け」。見事にサヨナラタイムリーで期待に応え、このシリーズでチーム唯一の勝利打点を挙げた。
「年の功だよ」。そのサヨナラ打を振り返った。若手の台頭で出場機会が少なくなってからは、「代打で結果を出す」ことに割り切れるようになったという。日本シリーズ初経験の若手が多い中、まさにキャリアで放った一打だった。
現役時代から練習の虫だった田辺は、指導者としても中村剛也や栗山巧らを育てた名伯楽でもある。自身にとって練習とは「安心感までいかないけれど、打席で心を落ち着かせてくれるもの」。若手がすくすくと育つ所沢の土壌には、立派な練習場、そして新しい本拠地「CAR3219フィールド」が誕生した。
「下から突き上げていくような選手を育てていかなくてはならない」
いつ、どんな場面でも自信を持って打席に立てる―。そんな選手を、1軍の舞台へと送り出していく。
(埼玉西武ライオンズ広報部・田代裕大)