ゼリーじゃないのになぜ「ゼリー」? おからで作る地元の味、名前の由来は今も謎 行田の「ゼリーフライ」
「ゼリーフライはなるべく、お店で食べてもらってね」。埼玉県行田市役所を辞めて飲食店を開くと打ち明けた大沢照夫(76)に、商工観光課にいた同僚は意外な話をした。
野菜を混ぜたおからを油で揚げるゼリーフライ。庶民的なソース味で人気の郷土料理だが、土産に買って帰った市外の人から「これが名物なのか」と市役所に苦情が来ると、同僚はこぼした。
冷めるとパサパサになり、食べると胸焼けがする。揚げたてとはまるで別物になってしまう弱点を克服しなければ。大沢は店のオープンを控え、妻の薫(76)と一緒に味の探求を始めた。
「ゼリーフライはおやじの時からですね」と話すのは長島鳩(あつむ)(77)。行田市宮本で「かどや豆腐店」を営む。1949年に、同市天満から現在地に店が移って間もなく売り出したから、ゼリーフライに関しては最古参だ。
豆腐の製造過程で出る大量のおからを何とかしたいと父、良男が始めた。20歳で店に入った長島は調理の傍ら、買い物客に懸命に作り方を教えた。「行田中、いろんな人に教えました。広まったのはそのせいもあるんじゃないかな」と振り返る。
70年代初めに米国が大豆の禁輸に踏み切り、材料費が高騰。豆腐店の閉店が相次ぐ中でも長島の店は生き残った。ゼリーフライの味にもこだわった。「おからが口に残るようじゃ駄目。調味料も使わない。喉越し良く作るのがコツだよ」
大沢が手塩にかけた店「かねつき堂」を同市本丸にオープンしたのは97年3月。ゼリーフライは試行錯誤の末、揚げる油をラードから植物油に替えた。「胸焼けしないし、冷めてもうまい。材料費がかなり上がるけど気にならなかった」
ゼリーフライの元祖は、同市城西にあった「一福茶屋」(閉店)とされる。日露戦争に従軍した店主が中国で食べた料理をアレンジしたという。夫婦でリヤカーを引き、大沢の遊び場だった神社にもよく売りに来た。割り箸に刺したのが1個5円。
大沢のかねつき堂は、行田を訪れた観光客のほか、地元の常連も足を運ぶ。「乳母車を押して毎日来てたおばあさんは『これ夕ご飯なの』って2個食べて、おじいさんにお土産を2個買ったよ」と大沢の顔がほころぶ。
今、仕事は朝の仕込みのみ。調理は長女の加奈枝(53)に任せている。「一から十まで納得できるように作った」レシピは加奈枝にだけ教えてある。(敬称略)
■銭→ゼリーは誤り?
ゼリーフライという名前の由来については、その小判形から「銭フライ」と呼ばれ、やがてそれがなまって「ゼリーフライ」になったというのが定説。しかし、かどや豆腐店の長島鳩(あつむ)は「あれは間違い」と、きっぱり否定する。
長島によると、ゼリーフライを作った一福茶屋を継いだ2代目の店主は、かどや豆腐店から材料のおからを仕入れていた。ある時、長島が「なんでこれ、ゼリーフライっていう名前にしたんだい」と尋ねると、2代目は「俺も分からないんだ。もう最初っから、おやじ(初代)がゼリーフライっていう名前で売り出したんだから」と答えたという。
小判に似た形から時間をかけて銭フライ→ゼリーフライという呼び名になったという説はもっともらしい。ただ2代目の言う通り、初代が最初からゼリーフライと名付けたのが事実とすれば、根拠は何だったのか。疑問は尽きないが、初代も2代目も既に亡くなり、歴史をつくった一福茶屋も10年以上前に閉店した。
かどや豆腐店と一福茶屋の取引は2代目が亡くなるまで続いたという。長島は「昔のことを知ってる人はいなくなっちゃったね。ゼリーフライのこともいろいろ言われてる。まあ(銭→ゼリー説が事実かどうかは)どっちでもいいんだけどね」と笑った。