埼玉新聞

 

死んでいた方が楽とも…震災10年、大きく変わった人生 さいたまの避難者支援の事務所で職員ら黙とう

  • 黙とうする中野祐子さん(前列右から2人目)ら=11日午後2時46分、さいたま市浦和区

 東日本大震災から10年となった11日の発生時刻。亡き人の名が刻まれた碑の前、生活を奪った海のそば、いとしい人の存在が感じられるたくさんの場所であの日と向き合い、教訓を伝える大切さをかみしめた。東京電力福島第1原発事故で故郷を離れ、埼玉県内などに避難した人らも思いをはせ、列島では祈りが広がった。

 さいたま市浦和区の福島県富岡町県外避難者支援拠点事務所で11日午後2時46分、職員らが黙とうをささげた。事務所は2015年に設置され、福島県外に避難している富岡町民の孤立化を防ぐため、相談などの支援を行っている。

 復興支援員5人が戸別訪問で相談対応をしてきたが、新型コロナウイルスの影響で、現在は電話対応している。17年9月から復興支援員を務める中野祐子さん(64)は「原発被害で見えないものや将来への不安は計り知れない。帰るかどうか、町民の気持ちは揺れ動いている」と話した。

 中野さんは震災の津波で、福島県南相馬市鹿島地区の自宅を流された。発災当時、隣接する相馬市の勤務先から車で自宅に戻ろうとしたところ、消防車に止められて「津波が来てる」と言われ、高台に逃げた。気付くと津波が家々を押し流していたという。

 中野さんは越谷市に住む長女を頼って15年、越谷に移り住んだ。「もう10年、まだ10年。長いようで短い。あの津波に流されて、死んでいた方が楽だと思ったこともあった。現場にいて、つらいことを数多く目にした。いまだに言葉にできない光景がある。私の人生は震災で大きく変わった。あれさえなければ、南相馬で一生終わっていたと思う」と振り返っていた。

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