埼玉新聞

 

【3分間の聴・読・観!(23)】どこまでも、鉄道ミステリー  楽しさを楽しいまま味わいたい

  •  

     

  •  

     

  •  

     

  •  
  •  
  •  

 夏目漱石の「彼岸過迄」に鉄道ミステリーを思わせる場面がある。大学を出たばかりの敬太郎が友人須永の叔父に職の世話を頼んだところ、言いつけられたのは探偵まがいの用事だった。当時の東京を走る電車の小川町停留所で下車する黒い中折れ帽の男を見つけ、さらにその後2時間ほどの男の行動を報告しろというのだ。

 ところが小川町は各所から多くの電車が集まって通過する停留所で、どこで張り込めばいいか分からない。電車は続々とやって来て乗客が行き交う。慌てる敬太郎。にぎやかな停留所の臨場感に引きつけられる。

 自意識を持てあます近代の知識人の姿と恋愛に重きを置くのが「彼岸過迄」の正当な読み方だとは思うが、ミステリーさながらの謎を埋め込み、入り組んだ電車の描写が物語を加速させる小川町停留所の章も私には魅力がある。

 鉄道が推進する小説と言えば、鉄道ミステリーも欠かせない。書店で赤い列車が駆け抜ける表紙のハヤカワミステリマガジン7月号の特集「令和の鉄道ミステリ」が目に留まった。車両の密室性や運行ダイヤの正確さゆえ、さまざまなトリックが読者を引きつけて放さないジャンルで、「オリエント急行殺人事件」「点と線」といった名作を挙げるまでもないだろう。

 今や全国で地方路線が消え、高速の新幹線が都市を結ぶ。時刻表をめくるより乗り換えアプリに頼る方が簡単だ。鉄道と私たちの関係は変わった。ミステリマガジンによると、鉄道ミステリーの新作も生まれにくくなっているという。

 だが掲載された新作短編は時代の変化を取り込んでいて、トリックにも膝を打った。霞流一「スティームドラゴンの奇走」は、幻の蒸気機関車「C63」を、現代の鉄道マニアの実業家が完成させたという設定。北海道の廃線一帯も所有し、C63の運行イベントを実施することになったが、試運転中に猟奇的な殺人事件が発生する。

 走行車両での「不可能犯罪」は、読者に対する作者からの挑戦、いや挑発か。ページを進めながら頭を巡らせる時間がまたいい。むろん結末は読んでもらうしかないが、最後の6行にこの作品がいま書かれた意味がある気がした。

 同誌の再録作品、コーネル・ウールリッチ「無賃乗車お断わり」(田村義進訳)は、ニューヨークの地下鉄で起こった殺人犯の逃走劇。警備員殺しの男が50万ドルを詰め込んだスーツケースを持って逃げたと新聞が騒いでいる。主人公で車掌のディレイニーが乗務中に気付いたのは、列車乗降口に置かれた不審なスーツケース…。不気味な犯人から逃げ惑う乗客、危険だらけの追跡、短い作品ながら一気に盛り上げるスピード感が見事だ。この作品、初出は1936年だが、時空を軽々と超越するウールリッチの腕前を堪能した。

 乗り鉄、撮り鉄などいわゆる「テツ」の存在もあり、鉄道にはまだまだ人が集まっている。この先も物語の舞台となることを期待したい。

 ミステリーを味わうと再読したくなるのが、植草甚一「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」。何十年も前に初めて見た瞬間、「これだ」と書店でつかんだ秀逸のタイトルである。1950~60年代の欧米ミステリーをたっぷり紹介する植草のあふれる言葉、尽きることのない好奇心に浸りたい。例えばこんな一節。「さかんに書きまくるエクスブラヤ」のごく一部を引用する。

 「とにかく途中で投げだそうと思ったシロモノが、最後で救われる形になったので、よし続けてエクスブラヤの作品をもう二作読んでやろうと考えたが、いつもの悪い癖で、ついまた別な作家に引っかかってしまった。それはアメリカのフィリップ・フロインドという小説家である」と、今度はフロインドの紹介がまた延々と続く。

 正直に言えば、この分厚い本に取り上げられた作品を読み尽くすのは私には無理だと思う。でも世の中にはこんなにたくさんの面白いミステリーがあるのだという高揚感に包まれる。例えて言えば、植物や野鳥の図鑑だろうか。載っている草花、鳥の全てをじかに見ることはないが、存在を知るだけで楽しい。

 私にとって「雨降りだから―」は一定の間隔を置いて開いてはニヤニヤしながらエネルギーを得る本だ。楽しさを楽しいまま人に手渡す文章は、書けるようでなかなか書けない。こちらは味わうばかりだが、そんな付き合いができる1冊があるのは実にありがたい。

 最後に鉄道をタイトルに含む音楽を物色してみた。名曲「A列車で行こう」を思い出すのは、まあ当然だが、ここではアレックス・ノース作曲の映画「欲望という名の電車」の音楽はどうだろう。謎めいた雰囲気を持つノースの曲は、ミステリーを読む頭に心地よく溶け込んでくる。(杉本新・共同通信記者)

 すぎもと・あらた 文化部を経て編集委員室所属

【今回の作品リスト】

▽夏目漱石「彼岸過迄」

▽ハヤカワミステリマガジン7月号(奇数月発行)から

霞流一「スティームドラゴンの奇走」

コーネル・ウールリッチ「無賃乗車お断わり」(田村義進訳)

▽植草甚一「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」

▽アレックス・ノース作曲、映画「欲望という名の電車」

ツイート シェア シェア