<高校野球>互いを認め合い切磋琢磨 現役時代は決勝で対戦したライバル、母校率い37年ぶり再戦
37年の時を経て、母校を率いる両雄が夏の大会で初めて激突―。22日、県営大宮球場で行われた第103回全国高校選手権埼玉大会5回戦でBシード上尾とノーシードの松山が対戦した。松山の瀧島達也監督(54)と上尾の高野和樹監督(54)は現役時代の1984年の第66回大会決勝で当たり、上尾が甲子園出場を決めた。旧知の仲の2人は指導者になってからも互いを認め、高め合ってきた間柄だ。この日は2―0で松山が準々決勝に駒を進めたが、勝敗を超越した魅力が詰まっているのが高校野球。まさに、そんな熱戦だった。
瀧島監督と高野監督。埼玉の公立高校の監督と言えば、真っ先に名前が出てくる熱血漢だ。学年は瀧島監督が一つ上だが付き合いは長い。
約40年前、高野監督は上尾進学を機に東秩父村を出て、プロ野球でも活躍した仁村兄弟のいとこで上尾の1学年上に当たる仁村武さんの実家(川越市)で下宿をしていた。その仁村さんとリトルリーグ時代にバッテリーを組んでいたのが当時、松山の選手だった瀧島監督だった。
瀧島監督は親友の仁村さんの家によく遊びに来ていて、「真面目で礼儀正しく、いつもニコニコしていた。今の勝負師の感じはなかった」と、高野監督を弟のようにかわいがっていた。84年の大会前には3人で新聞のトーナメント表を見ながら、「決勝でやろうぜ」と話していたという。
言葉は現実となる。当時から強豪で知られていた上尾に対し、松山はノーシードから勝ち上がり初の決勝へ。試合は上尾が勝ったが2年生で控え捕手だった高野監督は「5番一塁手」で出ていた瀧島監督の姿が印象に残っている。「今と変わらず、常に声を掛けて投手を勇気づけていた」
指導者になってからも良きライバルとして切磋琢磨(せっさたくま)してきた。互いの印象について、「瀧島さんはとにかく高校野球に対しての情熱がある。技術よりも気持ちや心を重要視する監督で僕も同じタイプだと思う」と高野監督。瀧島監督も「高野は一つ年下だけど、すごい監督。一球一球を采配でも指導でも、本当に大切にする。対戦する時は一瞬も気が抜けない」と敬意を表する。
境遇もよく似ている。瀧島監督は98年に滑川(現滑川総合)を夏の甲子園へと導き、高野監督は95年に鷲宮の部長として春のセンバツに出場した。母校に戻って監督になったタイミングも、2010年春(瀧島監督)と10年秋(高野監督)でほぼ同じだ。
今日まで結果が出た年もあれば、不本意な負け方をして悔しさや情けない思いをしたこともある。時代の流れとともに生徒の気質も変わり、以前のような厳しい指導もしづらくなったのかもしれない。
それでも、母校を率いる者にしか分からない重圧と戦いながらも母校を愛し、伝統の重みを守り、受け継いでいく使命感は変わらない。根底にあるのは「自分が選手としてあと一歩届かなかった舞台へ後輩を連れていきたい」(瀧島監督)「自分が出られて感動したあの舞台に後輩を立たせてあげたい」(高野監督)という同じ思いだ。
37年ぶりとなった“再戦”は、気持ちと気持ちのぶつかり合いとなった。最後は松山が2―0で競り勝ったが上尾も九回に2死満塁まで攻め立てる激闘。瀧島監督は「上尾高校への尊敬の思いが、うちの選手の集中力につながった」と感謝し、高野監督は「食らい付く精神と球際の強さがあった」と相手をたたえた。
勝った松山は次戦への力に、敗れた上尾も明日への力に―。高校野球で勝ち負けよりも大切なことを、両監督が率いる両チームが教えてくれた。