埼玉新聞

 

【3分間の聴・読・観!(25)】へこんだ気分を手当してくれる雄大さ  山の楽しみ、自分のペースで

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 科学分野で定評のあるブルーバックスから刊行された「登山と身体の科学」(山本正嘉著)は、登山歴50年の鹿屋体育大名誉教授が、山で疲れない歩き方や栄養補給、効率的なトレーニング方法などをさまざまなデータに基づいて説いている。

 サブタイトルは「運動生理学から見た合理的な登山術」。読みやすく、実用的な科学読み物というのが、本書の最初の顔だろう。私も山を歩くのは好きで、本書から楽しく有益なアドバイスを受けた。

 同時にあることに気付いた。あくまで私の感覚に過ぎないが、もう一つのアドバイスが浮かんできたのだ。

 例えばこの一節。「ごくゆっくり歩くように心がければ、疲れをそれほど感じずに上り続けられるはずなのです。多くの登山者が上りでつらいと感じているのは、歩くペースが速すぎるという、ごく単純な理由からなのです」

 実にシンプルな手ほどき。私も山に行くと特に登り始めがつらい。町で暮らす性急さを持ち込んだからか。それならゆっくり行けばいい。

 何でも人生になぞらえるのがうっとうしいのは分かるが、これは私たちの日々にも当てはまる。うまくいかなかったり、気持ちがふさいだりするなら、じたばたせずにゆっくりやればいいではないか。

 さらに読み進めると運動時に自分の脳が感じる「きつさ」(主観強度)に関する解説がある。「山道を上るときには、『いまの主観強度はどれくらいか?』『きつさを感じずに歩けているか』と自問自答しながら歩く」

 やがて疲れない歩行ペースが身体で分かる。これも同じように移し替えると、日に1度は自らの主観強度、心のきつさを振り返って調整するのがよさそうだ。

 下りで疲れる人も多いが、その時は歩幅を狭くするのが効果的。足への衝撃が抑えられる。ここでも「人間の身体の性質として、ハードな作業をする場合、それを1回でこなすよりも、小分けにして複数回の作業にしたほうが、身体へのダメージを小さくできる」と説明される。

 しつこくなるが、難局に直面したら無理に突破するより小分けに対処する方がいいのかもしれない。これらは本書のもう一つの顔を感じる我流の読み方だが、気持ちがすっとして、また山を目指したくなった。

 山そのものや登山を中心に据えた多くの文学作品から、畦地梅太郎(1902~99年)の画文集「山の眼玉」を挙げよう。1957年に刊行され、今では文庫本で手に入る。

 平面的な表現で、素朴なぬくもりを感じる「山男」シリーズの版画家が、北アルプスや出身地の四国など各地の山々を訪れた紀行文に挿絵を付けた。戦前の山行も追想されており、現代とは異なる風景をうかがわせる。

 西へ東へ山を経巡るさまを、ひょうひょうとした筆致でつづる味わいがいい。ある時、霧が晴れて山容を現した浅間山が「頭から白煙をゆるくはき出してどっかと坐っていた」。あまりに間近で大きい。「おお、浅間山と思うとたんに後のぬれた草原に両手をついてのけぞった」(峠への道)。

 不気味な山小屋に1人で泊まった夜、土間に天幕を張って安心したものの、家鳴りを聞いて妖怪を妄想した様子をユーモラスな文章と挿絵で描く(土小屋の夜)。

 戦前の出来事で、松山の知人を訪ねたが数日の間留守と分かり山に向かった際の一文からは、雄大で清明な風景が立ち上がる。

 「雪の一塊となって雲上に浮ぶ石鎚山、白一色に包まれた雪の大野ガ原、松山の市街は城山を抱くように冬日にかわらを光らせており、平野をとりまく山の数々、その後方の紺碧に並ぶ瀬戸内海の島々、嶺という名にそむかぬ山上に立ったことは、いまもなお真新しい、きのうのように思い出す」(「伊予地の冬山」)。

 その場にいるように気持ちが広々とした。この画文集が長く親しまれてきた理由なのだろう。

 坂道で石を踏みしめる感覚、木々の葉や草むらのにおい、木漏れ日の柔らかさ、鳥の声など、山には日常の気分のへこみを手当てする力が備わっていると思う。

 山を歌った名曲もたくさんあるが、ここは気分を盛り上げる1曲として、「ロッキー・マウンテン・ハイ」(ジョン・デンバー)の伸びやかな声を楽しむことにしよう。(杉本新・共同通信記者)

 【今回の作品リスト】

▽山本正嘉「登山と身体の科学」

▽畦地梅太郎「山の眼玉」

▽ジョン・デンバー「ロッキー・マウンテン・ハイ」

 すぎもと・あらた 文化部を経て編集委員室所属。本コラム「3分間の聴・読・観!」の読み方を時々聞かれます。「さんぷんかんのちょうどっかん」。ほぼ4週に1回の連載は今回から3年目に入りました。

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