【ぷらっとTOKYO】本郷は文学者ゆかりの街 古川柳の「かねやす」も
東京メトロ丸ノ内線を本郷三丁目駅(東京都文京区)で降りて本郷通りへ出ると、交差点角に「かねやすビル」が立っている。「かねやす」は元々、江戸時代にこの場所で歯磨き粉を売り出して評判を取った店の屋号。外壁に掲げられた古川柳「本郷もかねやすまでは江戸の内」を眺め、本郷散歩の第一歩を踏み出した。
川柳の解釈は複数あるらしいが説明板によれば、1730(享保15)年の大火の後、町奉行が防災のために土蔵造りや外壁を塗り込めた家を建てることを奨励。江戸城からかねやすの辺りまで、瓦ぶきの屋根が続くようになったことを表現しているという。
本郷通りの東に、東京大のキャンパスが広がる。国の重要文化財「赤門」の前で、記念写真を撮る人が次々ポーズを決めていた。構内の安田講堂や、夏目漱石の名作「三四郎」の舞台となった三四郎池はよく知られた風景だ。
本郷には文学者ゆかりの場所が多い。大正から昭和前期にかけ、多くの文士が暮らした「菊富士ホテル」もその一つ。本郷通りから分かれて北西に向かう菊坂通りをしばらく行き、右側の坂を上り詰めた辺りにあった。
「本郷菊富士ホテルの跡」と刻まれた大きな石碑が目を引く。碑の脇には主な止宿者約30人の名が記されている。宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、谷崎潤一郎、広津和郎、伊藤野枝…と豪華な顔ぶれだ。
石碑から遠くない炭団坂の上には明治時代の一時期、「小説神髄」などを著した坪内逍遥が住んでいた。逍遥の転居後は旧伊予松山藩主・久松家の育英事業「常盤会」の寄宿舎になり、いずれも俳人の正岡子規、河東碧梧桐が寄宿し、内藤鳴雪が舎監を務めた。
【メモ】神田川に近い「本郷給水所公苑」には、江戸時代から明治にかけて利用された石で造られた水道管「神田上水石樋」が移築復元されている。