20歳で…弟が真珠湾で戦死、葬儀で涙見せぬ母 忘れられない姉「戦争は嫌」 懐かしみ願う平和な世界
80年前の真珠湾攻撃に出撃、戦死した厚見峻少尉の姉厚見房子さん=春日部市=は102歳で健在。2歳年下の弟が忘れられない。「よく口げんかをしたけど、かわいい子だった」と懐かしみながらも、「たった20歳で死んだ。戦争は嫌だね」。前途ある若者の命を奪った戦争を憎み、平和な世界を願い続けている。
■憧れの予科練
厚見峻さんは1921年11月北葛飾郡幸松村(現在の春日部市)生まれ。7男3女の末っ子。体は小さかったが明るく純真な性格。ドッジボールが得意で、誰からも好かれる人気者だった。
旧制粕壁中学(現在の県立春日部高校)卒業後、少年飛行兵を養成する予科練(海軍飛行予科練習生)に志願。数十倍の難関を突破し合格した。
当時、予科練のゼロ戦乗りは少年たちの憧れ。峻さんも小さい頃から夢見ていた。「戦運に恵まれて敵機をたたき落としたいと思います。そのほかには、名誉も金もいりません」。母しんさんにそう言い残し、神奈川・横須賀の海軍航空隊に向かった。16歳の春だった。
■燃料タンクに被弾
3年半の厳しい訓練を経て海軍一曹になった峻さん。真珠湾攻撃では空母「蒼龍」にゼロ戦搭乗員として乗船。第2次攻撃隊の第3集団第3制空隊(隊長・飯田房太大尉)の2番機を命じられた。
ハワイ沖にいた機動部隊に攻撃命令が出たのは12月8日の未明。第1次攻撃隊の奇襲作戦は米太平洋艦隊に甚大な被害を与え、成功した。
しかし第2次攻撃の頃には米軍が反撃を開始。日本軍の犠牲者も増えた。
1番機の飯田大尉は燃料タンクを撃たれ、米軍基地の格納庫に突入して自爆。2番機の峻さんも地上砲火で燃料が漏れ出し、「敵戦闘機と交戦したが戦死した」(ゼロ戦搭乗員の故原田要さん)。
■遺骨箱にズボン
戦死の知らせは12月中旬に届いた。白木の遺骨箱には写真と脱いだまま丸まったズボンが入れられていた。
「お国のために命をささげた英霊」として靖国神社に祭られた峻さん。連合艦隊司令長官の山本五十六大将から感謝状が贈られて2階級特進。墓石には「大東亜戦争完遂の基を効し悠悠ここに殉す寔(まこと)に偉なりとす」と刻まれ、その死をたたえられた。
母のしんさんは後妻だった。夫は38年に他界し、峻さんは実の一人息子だった。予科練があった茨城の霞ケ浦に何度も出掛けるなど、特にかわいがっていた。
葬儀は盛大に執り行われた。しんさんは最後まで毅然(きぜん)とした態度で涙を見せなかったという。
取材に房子さんが開口一番に口にしたのは「戦争は嫌だね」。その後も何度も同じ言葉を繰り返した。「母が一番かわいそう。峻は頑張り屋だったけど死んじゃ仕方ない。戦争は殺し合い。嫌だね」
【真珠湾攻撃】 1941年12月8日、日本海軍が米ハワイ島真珠湾にあった太平洋艦隊と基地に行った奇襲攻撃。この戦闘で米英など連合軍との全面戦争に突入した。米軍は打撃を受けたが、日本軍も60人を超す若者らが戦死した。
【予科練】 日本海軍の航空兵養成制度の一つ。1929年創設。年齢、学歴など別に甲、乙、丙に分類。創設時の応募資格は14~20歳。戦前の卒業生は航空兵の中心を占め、約90%が戦死した期もある。