小中学校時代の約5年間、不登校を経験 高校は埼玉県内初の三部制高校「戸田翔陽高校」へ 現在は文部科学省官僚となった藤井さん
生活スタイルに合わせて学ぶ時間帯が選べる埼玉県内初の三部制高校として誕生した県立戸田翔陽高校(戸田市新曽、鈴木健校長)が開校20周年を迎えた。同校卒業生で文部科学省官僚となった藤井健人さん(31)は、小中学校時代の約5年間、不登校だった。全国の小中学校で不登校が過去最多となる中、藤井さんと同校元校長の管野吉雄さん(72)に、当事者としての経験とともに、日本の教育の現状、これからの学校のあり方などを聞いた。
■高校に入って変わる
―戸田翔陽高校について。
藤井さん 4期生で3部(夜間部)に入学した。中学校時代の成績はオール1。選択肢はほとんどなかった。通常の定時制と異なり、制服や厳しい校則もあったのがよかった。ただ、当時は雰囲気も暗かったし荒れてもいた。現在は明るくて、雰囲気が全日制に近付いていると思う。
管野さん この学校に来る生徒は何かしらの事情を抱えている。小中学校で不登校だった生徒が変わる。自分の過去を知られていないし、周りの生徒も痛みを分かっているからだろう。
藤井さん 定時制は「学びのセーフティーネット」と言われており、学びたいと望む子が誰でも入れることが必要。人気が出て、それが変わってきている。一方、いい意味でも悪い意味でも温室になっている。社会的自立が求められる。
■崩れた原因は家庭環境
―不登校になったいきさつと当時の様子は。
藤井さん 祖父母、両親ともに病気で入退院を繰り返していた。小学4年の時までは友達と遊んだりしていたが、次第に回りの子たちと自分の家の違いを知るようになった。家庭の機能も崩壊しており、生活のリズムも崩れていった。家に閉じこもるようになり、生活は完全に昼夜逆転。オンラインゲームばかりやっていた。小学5年で小児うつと診断。外に出るのが怖くなった。
勉強が嫌いだったわけではなく、中学校も最初の1週間は通った。「あいつ、小学校来てなかった」と陰口を言われ、基礎テストも全くできず、スタートラインからつまずいた。身も心も疲れ、「1日だけ休ませてほしい」と親に話し、気が付いたら3年たっていた。
■大学が一番つらかった
―高校から大学進学の経緯は。
藤井さん 高校では小学校の復習から学び直した。授業の予習復習も徹底。体育以外はオール5だった。
管野さん 藤井さんは職員室に勉強を教わりに来ていた。校長室にも弁当を食べによく訪れていた。
藤井さん 家族を養うため、卒業したら就職するつもりだった。しかし、高卒だと満足なところに就職できない。生涯賃金も違う。奨学金も借りており、大学に進学してから就職することにした。やはり、現役では合格できず、特待生として予備校に通い、希望の早稲田大学に入った。
ところが、同級生と話が合わない。高校時代のことなど話題についていけず、気が付いたら独りぼっちだった。周囲が学生生活を楽しんでいる中、アルバイトを詰め込んだ。学費のほか、親の治療費も払っていた。今から思うと、大学時代が一番つらかった。学内ではずっと図書館にいた。そこで教育社会学と出合い、自分の経験と重なる格差問題に関心を持ち、向き合い続けている。
■藤井健人(ふじい・けんと)
1992年、蕨市出身。県立戸田翔陽高校を卒業後、早稲田大学社会科学部に進学。東大院修士課程修了。2019年、県立大宮商業高校(定時制)教諭。国家公務員総合職試験に合格し、23年から文部科学省職員。現在は高等教育局国立大学法人支援課所属。さいたま市在住。
■県立戸田翔陽高校
県立戸田高校全日制、同浦和商業高校定時制、同与野高校定時制、同蕨高校定時制の統合に伴い、2005年に開校。午前、午後、夜間の三つの時間帯から学習時間帯が選べる県内初の三部制・単位制高校として誕生した。小中学校時代に不登校を経験した生徒が多い。