【シネマの花道(6)】シンプルだから伝わる出会いと別れの切なさ 大切な人の幸せを願うということ
大抵の物語は出会いと別れでできているのではないだろうか。「男はつらいよ」で寅さんは全国各地でマドンナと出会い、失恋してまた旅に出る。「ローマの休日」でアン王女は新聞記者のジョーとつかの間の恋に落ちる。恋愛映画に限ったことではない。「七人の侍」にしても寄せ集めの侍たちが共に戦い、ある者は命を散らす。誰かと誰かが出会うことで物語は動き始め、一時的にあるいは永遠に別れることでドラマが生まれる。
スペイン出身のパブロ・ベルヘル監督による長編アニメ「ロボット・ドリームズ」は、1980年代とおぼしき米ニューヨークを舞台に描かれる友情の物語。ただし主人公は人間ではなく、犬とロボット。1匹と1体の出会いと別れは楽しくそして切なく、人生経験を積んだ大人の観客にこそ響くビタースイートな作品となっている。
犬のドッグはニューヨーク・イーストビレッジで1人暮らしをしている。ゲームをするのも一人、食事もレンチンで一人。窓の外に目をやると、隣のアパートでカップルが仲むつまくテレビを見ている。冒頭わずか数分で見せるドッグの暮らしは、都会の孤独を表して出色だ。テニス型のテレビゲームを右手対左手で遊ぶ姿はいかにも寂しいが、似たようなことをした経験のある人は少なくないだろう。
ドッグはテレビのCMで見た「友達ロボット」を購入。2人(?)はすぐに意気投合し、見るものすべてが新鮮なロボットに引っ張られるようにドッグも街へと繰り出す。象、馬、猿など人種(?)のるつぼニューヨークで自由に目覚めた2人は、アース・ウインド&ファイアーの「セプテンバー」に合わせて軽やかに踊る。
夏の終わりのある日、海水浴を楽しんだ後でロボットがさびて動けなくなる。ドッグがどんなに動かそうとしてもロボットは絶望的に重い。次の朝、修理道具を持って戻ってみると、海水浴場は翌夏まで閉鎖に。ドッグは冬の間、ほかの友達をつくろうとするがうまくいかない。ロボットは浜辺に横たわったまま再会の夢を見る。そして、次の夏がやってくる―。
CGだ3Dだとアニメの表現が進化を続ける中、キャラクターの造形は懐かしさを感じさせるほど単純で、画風は極めてシンプル。せりふは一切なく、動きだけでストーリーが展開する。だがシンプルだからこそ、見る人すべての共感を呼ぶことができる。
さらに言えば、一見して友情譚ではあるものの、出会いと別れの切なさは恋愛映画のようでもあり、ドッグとロボットの性別がはっきりしないことからあらゆる愛の物語として受け取ることも可能だ。誰かを思うこと、大切な人の幸せを願うことを描いた、普遍的な物語と言っていいだろう。
普遍的であるが故に他にも同じような感慨を呼び起こす映画はあるわけで、エンドクレジットを見ながら思い出したのは「街の灯」や「カサブランカ」といったクラシックな作品。チャップリンやボギーの振る舞いが、ロボットたちのそれと重なって見える。最近の映画で言えば、韓国出身のセリーヌ・ソン監督作「パスト ライブス/再会」が印象深い。
ソウルで暮らす少女ノラと少年ヘソン。2人は成績を競い合いながらも淡い恋心を抱いていたが、ノラの一家が北米に移住して離ればなれに。12年後、フェイスブックで偶然再会するが、ニューヨークとソウルの距離を縮めるには至らない。さらに12年後。ノラは別の男性と結婚していたが、ヘソンはそのことを知りつつノラに会うためニューヨークを訪れる。
24年ぶりとなる7日間の再会は、決してドラマチックなものではない。会話はむしろ抑制的だ。「もしもあの時…」というヘソンの遠回しな問いかけにも、ノラはどのような答えが求められているかを知っていながらそれを口にすることはない。無言で見つめ合い互いの思いが交錯する数秒間の豊饒さが、離れていた24年間にも匹敵する重みを持って伝わってくる。
ノラとヘソンの出会いと別れ、選択と運命の物語だが、そこにもう一人、重要な脇役として登場するのがノラの夫である米国人作家のアーサーだ。レストランで2人の韓国語の会話が理解できないながらも静かに寄り添い、「この物語で僕は運命を阻む邪悪な米国人の夫だ」とこぼすぐらいには人間的だが、妻にとって大事な意味を持つ24年ぶりの再会を邪魔することはない。これも大切な人の幸せを思う一つの姿なのだとしみじみ思わせる、大人の映画であった。(加藤義久・共同通信記者)
かとう・よしひさ 文化部で映画や文芸を担当しました。「ロボット・ドリームズ」には「オズの魔法使い」をはじめ「シャイニング」の双子姉妹や「サイコ」のシャワーシーンなど、名作映画へのオマージュがちらほら。監督の映画愛がちりばめられています。