埼玉新聞

 

選手信じ続け37年 総監督、部長、さまざまな立場で 【浦和実監督・辻川正彦 執念の先に】(中)

  • (左から)辻川正彦監督が石戸颯汰投手と駒木根琉空投手に指導する=11日、さいたま市緑区の九里学園大崎総合運動場

    (左から)辻川正彦監督が石戸颯汰投手と駒木根琉空投手に指導する=11日、さいたま市緑区の九里学園大崎総合運動場

  • (左から)辻川正彦監督が石戸颯汰投手と駒木根琉空投手に指導する=11日、さいたま市緑区の九里学園大崎総合運動場

 1975年の創部以来、春夏通じて初の甲子園出場となる選抜高校野球大会への出場を決めた浦和実。88年から指揮を執る辻川正彦監督(59)は「長かった。9割は嫌な思い出かもしれない。でもあと1割が欠かせないんだよね」と醍醐味(だいごみ)を語る。創部から半世紀、チームを初の甲子園に導いた指揮官と37年間の軌跡を振り返る。

■近くて遠い甲子園

 「3年で結果を」と求められ、就任3年目に夏の埼玉大会初の16強入りと実績を残した辻川監督の続投が決まった。

 1992年には部員数が一時150人を超え、夏には初のベスト8に進出。同年の秋季県大会で準優勝し、関東大会へ初出場を決めた。1回戦で後に関東大会を制す常総学院(茨城)に5―6でサヨナラ負けしたが、就任わずか5年でチームを押し上げた。

 「甲子園にも簡単に行けるんじゃないかと思ってしまった。とんでもない勘違いだった」。2000年に2度目の秋季関東大会に挑戦したが、8強で敗退。08年には夏の南埼玉大会で準決勝に進むも、浦和学院に2―4で競り負けた。いつもあと一歩、甲子園に届かなかった。

■諦めかけた近年

 「ああ、本当に運がないな」。関東大会の8強に進んでも縁がなかった聖地。豆田泰志投手(現埼玉西武)を擁した20年には、新型コロナウイルス感染拡大の影響で甲子園につながる夏の大会が中止になった。22年の夏、準々決勝で浦和学院に1―6で敗れた時には「これが限界かな」と諦めかけた。

 それでも、8強にさえ入っていれば必ずチャンスが来ると選手たちを信じ続けた。「今年が最後かもしれないと思っていた。こいつらが駄目なら、もう終わりかなって」。今季に懸けていた思いを明かした。

■野球部への思い

 37年間、チーム事情や後任育成などのために総監督や部長も経験。一時、チームを離れたこともあった。「浦実が良いチームだなって言われるなら、立場はなんだっていい」と野球部の基盤づくりに力を注ぎ続けた。

 野球部を強くしたいという思いには、競技の側面以外にも理由がある。「一般の生徒にも、自分の母校を誇りに思ってほしい。野球部が勝てばそれができるんじゃないか」。教師として生徒たちと関わる中で芽生えた感情が、何度諦めかけても立ち上がる糧となっていた。

■つじかわ・まさひこ

 桶川東中―城西大城西高(東京)―国士舘大。大学時代は準硬式野球部に所属しポジションは一塁手。大学卒業後、保健体育科教師として浦和実高に就職。同時に硬式野球部の監督に就任。途中、総監督、部長の期間を経て、2023年8月に現職復帰。桶川市出身。59歳。

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