【楽しき波乱万丈 浜木綿子聞き書き#2】ロケットダンスに憧れて バレー少女が宝塚の世界へ
舞台、映像で約70年にわたり、主演し続けてきた俳優・浜木綿子。開場から舞台に立つ東京・日比谷の2代目帝国劇場は建て替えのため2月末に幕を閉じる。浜の航跡を人との出会いを軸にたどる。
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敗戦を現在の岐阜県中津川市で迎えた浜木綿子。帰京したものの、自宅は占領軍の家族住宅に接収されて住むことがならず、一家は大阪府箕面市に落ち着いた。1948年に私立女子校の梅花中学校に進学し、バレーボール部に所属した。
「ジャンプは得意でしたが勉強は嫌いなんです。でも成績は悪くなかったみたい。ちょっといばっちゃいましたね(笑)。おちゃめで先生やみんなを笑わせてかわいがられたいという気持ちが強かったようです」
在学中に、運命的な出会いがあった。姉に連れられて見た宝塚大劇場の宝塚歌劇団の舞台である。人気コンビの男役、春日野八千代と娘役、乙羽信子の出演で2人にも引かれたが、なぜか心動かされたのは脚を上げて一糸乱れず踊るロケットダンスであった。「あの群舞の中に入りたい」。強い思いが芽生えた。
そのためには難関の宝塚音楽学校に合格する必要がある。姉も希望したが両親の反対で断念した経緯があった。「私は言うことをきかない子。両親も折れて受験予備校に通わせてくれました」
宝塚歌劇団の劇作家、堀正旗の知遇を得て芝居の教えを受け、バレエ、声楽の個別講師も紹介してもらった。堀は浜の芸名の名付け親でもある。
「初めて履くトーシューズでお稽古をすると爪が割れて血がどんどん出て痛いの、なんの。まったく踊れません。早くから準備している人たちはスラスラと踊っていました。もうだめかしら。焦りました。その日からは歌、演劇とお稽古で走りまわりましたが、本当に苦しかったですねえ」。見事合格し、52年、音楽学校に入学した。(小玉祥子・演劇評論家)
【略歴】こだま・しょうこ 1960年、東京生まれ。全国紙演劇担当を経て演劇評論家に。主な著書に「艶やかに 尾上菊五郎聞き書き」「完本 中村吉右衛門」など。