埼玉新聞

 

虐待する母、我が子に「強盗殺人」を指示…祖父母殺害した元少年の声全文 なぜ「未来からのSOS」なのか

  • 講演後、会場からの質問に答える服部孝さん(左)と山本昌子さん=さいたま市中央区

 児童虐待や子どもの貧困問題に詳しい県職員の服部孝さんが、さいたま市中央区で開催された小中学校の教諭を対象にした研修会で、「児童虐待を知る」をテーマに講演した。「困った子」は「困っている子」の視点を持つべきと指摘した上で、児童虐待の早期発見に「先生の気付きがとても大事」と述べた。

 服部さんは、川口市内で2014年、当時17歳の元少年が母親の指示を受けて祖父母を殺害した強盗殺人事件をきっかけに、講演活動を行っている。元少年は母親らから虐待を受け、小5から中2まで学校に行かせてもらえず、行政が居場所を把握できない「居所不明児童」だった。元少年は懲役15年の判決を受けて服役。服部さんは元少年と手紙のやりとりを続けている。

 服部さんは児童虐待について、「大人と子どもの力の差による極めて重大な人権侵害」と指摘。「川口の事件は、支援を受けるべき子どもが支援を受けられずに起きた。周りの大人が早期に対応していれば、事件は起こらなかった」と呼びかけた。

 虐待された子どもたちは、SOSを出さ(せ)ない。人間は一人で生きられず、大人でさえ孤立を恐れるため、子どもは無意識に親との関係を切らないようにするという気持ちが働く。いつか自分を愛してくれると信じ、自分に問題があると考えたり、暴力が日常的で虐待の認識がなかったり、本当に助けてくれるのかと不安を持つという。

 反抗的な態度や暴力を振るうなどの問題行動を起こす子もいる。先生にとっては、「困った子」で「指導が必要な子」と認識されることがある。虐待を受けたことで警戒するようになるなどの背景があり、「困っている子」で「支援が必要な子」の可能性があるとして、服部さんは「問題行動はSOSのサイン。子どもたちの声なきSOSに気付けるか。先生の気付きはとても大事」と指摘した。

 講演の最後には、元少年が作詞し、アーティストの松井亮太さんが曲を付けた歌「存在証明」を流し、元少年のメッセージも読み上げられた。

■児童養護施設などで育った女性の思い

 ネグレクト(育児放棄)のため、生後4カ月で乳児院に入り、19歳まで児童養護施設などで育った山本昌子さん(29)も講演した。山本さんは「ACHAプロジェクト」代表として、児童養護施設出身者に晴れ着を着せるなど、児童虐待当事者の支援活動を続けている。

 山本さんは昨年6~7月の約1カ月に、交流サイト(SNS)を通して実施したアンケートの内容を説明。児童虐待の経験者1005人から回答を得たもので、先生に相談できたのは約25%、相談相手は担任が最多だった。うれしかった対応では、「話を聴いてくれた」が多数を占め、「すぐに時間をつくってくれた」「保健室など逃げ場をつくってくれた」の回答もあった。アンケート結果は近く、一般公開するとしている。

 山本さん自身は、理解のある幼稚園、小中学校の先生に恵まれ、偏見やいじめに遭ったことはなかった。小学校の頃は感情表現が下手で、迷惑をかけていたという。山本さんは「施設の担当から『担任の先生があなたのことを考えてくれていた』と言われた。申し訳なかったと思いながら、そのおかげもあって、生い立ちに負い目を感じずに過ごせた」と話していた。

 研修は与野西中、与野本町小、鈴谷小、与野八幡小の4校合同で開催され、約120人の教諭らが参加した。

■元少年が先生向けに、子どもたちのSOSについての考えを記したメッセージ。(原文まま)

 私が思うに、“声なきSOS”というのは、あくまで大人達が考えた呼び方だということです。これは、私自身にも言えることです。

 たしかにSOSを出さない、出せない子供達というのには、覚えがあります。

 ですが、その子供達にとっては、不自然な傷も、説明も、あるいは表情や行動だって、SOSのつもりで発しているわけではないのだと思います。自らが悪いのだと思い込んでいて、信じられるのは親だけだと思っているのなら、親との関係が切れてしまう恐れのあるSOSなんて、発するはずがないのです。故に気付けない。

 だからこれは、大人のエゴなんです。その痛々しい傷で、穴だらけの説明で、怯えた表情で、恐れるような行動で、大人達にSOSを発しているのだと思いたい。

 もしも“声なきSOS”が全て子供達の意図した通りのものだったとしたら、親元から離れて清々としている子供達がもっと溢(あふ)れていてもおかしくないと思うんです。

 “声なきSOS”は身心からのSOSであって、子供自らのSOSではない。

 それは一つの側面として頭に入れとくべきだと、私は思います。

 ただ、だからといって、子供達自身が望むからと放っといていいわけではありません。

 子供時代には隠そうとした傷も、大人になってからでは、当時その傷を晒(さら)していればもっと早くに悪夢から脱け出せたと思ってしまう。後悔の傷にもなります。

 虐待を受けていて良いことなど一つもありません。強いて言えば、同じ痛みを持つ者の気持ちがわかることぐらいです。ですがそれも、みんながみんな虐待を受けていなければ必要としないことです。

 だから私達は、子供達がどんなに親を求めようとも、子供達の将来を考えて、どうにかしてでも助けようと、同じ苦しみは味わわせまいと、必死に動くのです。

 もう一度言います。“声なきSOS”は、子供達の発するSOSではありません。

 子供達にとっては親が全てで、親以外の誰かが自らの世界になることはありえません。生きようと思えば自分一人でも生きられると気付くのは、もう少し後。

 それでもいつかは、“あの時にSOSを発していれば”と思うでしょう。

 だとしたら、今私達が言う“声なきSOS”は、“未来からのSOS”と呼ぶべきなんでしょう。

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