埼玉新聞

 

一瞬で大勢死亡の朝「痛いよ」「助けて」 元看護師が語った78年前の惨状 風船のような顔、飛び出す目

  • 広島での被爆体験を語る服部道子さん=15日、さいたま市浦和区

    広島での被爆体験を語る服部道子さん=15日、さいたま市浦和区

  • 広島での被爆体験を語る服部道子さん=15日、さいたま市浦和区

 78年前に広島で被爆した服部道子さん(94)が15日、「服部道子と戦争―ピカドン―の本当の話」と題して、さいたま市浦和区で講演した。16歳の時の被爆体験、被爆者としての戦後の苦しみ、長年取り組んできた平和活動を語り、「核兵器は絶対に廃絶しかない」と訴えた。

 服部さんは1945年3月、女学校を繰り上げ卒業後、広島の軍医部に嘱託職員の看護師として勤務していた。8月6日午前8時15分、米軍により原爆が投下され、爆心地から約3キロの地点で被爆した。原爆による熱線は、鉄の溶ける1500度を上回る3千~4千度とされる。無数の人間が一瞬で死亡し、多くの人は髪が逆立ち、皮膚が垂れ下がった状態で助けを求めてきた。

 やけどを負った患者をむしろの上に寝かせて応急手当てをした。「痛いよ痛いよ」「助けてください」「お水、お水ちょうだい」。顔は風船のように腫れあがり、目は飛び出し、骨まで見えた。死んでいく者に薬を与えるな、生きられる者で上官を優先するように指示された。「戦争って何だろうと思った」

 戦後は偏見や差別に苦しんだ。原爆症の影響で、下痢をしたり、吐いたりした。周囲からは「怠け者」と言われた。海に飛び込んで死ぬことも考えたという。「どれだけ泣いたか分かりません。被爆者だからこそ、強く生きてこられたと思う」と振り返る。

 県原爆被害者協議会(しらさぎ会)に参加し、被爆体験を語り続けてきた。2014年にはピースボートに初めて参加。シンガポールやヨルダン、ペルーなど世界各国を訪問して核兵器廃絶を訴えた。

 被爆者が活動を続ける中、核兵器禁止条約が17年7月、国連で採択される。ピースボートも参加する核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が大きく貢献したとして、同じ年のノーベル平和賞を受賞。服部さんは親交の深かった被爆医師肥田舜太郎さん(17年3月死去)の遺影を抱えて、授賞式の開かれるオスロに赴いた。「世界の人たちの喜ぶ顔を見たくて、ノーベル賞を受けた時はうれしかった」

 ロシアがウクライナに侵攻し、核兵器使用の脅威が高まっている。服部さんは「核兵器は絶対に廃絶しかない。ウクライナの戦争は1年以上経過した。上の人はふんぞり返っているだけで、困るのは一般市民。戦争をしてよいことは絶対ない。戦争だけはするもんじゃない」と話していた。
 

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