埼玉の「五輪レガシー」、イシ★バシが紹介 1964年の熱気を歩く 所沢でクレー射撃、新座に表彰台
いよいよ来年夏に迫った東京五輪・パラリンピック。埼玉県内ではサッカーやゴルフなどの競技が開催予定だが、実は1964年東京五輪でも会場になっていたのをご存知だろうか。
埼玉の面白スポットを紹介するフリーライター「サイタマニア イシ★バシ」こと石橋啓一郎さん(40)=川越市=が探し出した埼玉の「五輪レガシー」を紹介する。
64年の東京五輪では、ボートなど4競技が県内5会場で開催された。石橋さんは「アジア初のオリンピック。感動のあまり(会場の地に)記念を残したんです」という。県内だと川口の鋳物職人が命懸けで聖火台を製作した話ぐらいしか聞いたことがないので、内心「たいしたことはないだろう」と思いつつ、JR東所沢駅から所沢市南永井の「オリンピック道路」に向かった。
畑や流通センターらしき建物が並ぶ中、道路脇に「五輪之和」と刻まれた石碑が建っていた。クレー射撃の会場だったことを示すものという。射撃場はその後、閉鎖され、現在、県立所沢おおぞら特別支援学校などの敷地に。所沢でオリンピックがあったという事実に「!」をつけたいほど驚いたが、ひっそりとたたずむ碑に55年前の五輪を思った。
次に向かったのは、キツネノカミソリの群生で知られ、陸上自衛隊朝霞駐屯地に隣接する新座市新塚の市営墓園。石橋さんは、植え込みに囲まれた円形の台を指差し「五輪で使われた射撃競技の表彰台です」と説明する。
朝霞駐屯地内にある朝霞訓練場は2020年、そして64年時も射撃の競技会場。墓園はもともと競技会場近くにあったと思われる国有地。市に聞くと理由は分からないが、83年4月の開園以降も表彰台を維持。市が10月に設置した「表彰台跡地」のパネルには、表彰式の様子が印刷され「メダリストが立っていたのはここかな」と比較しながら歩くことができる。
「こんなところに?」の旅はまだ続く。県営戸田公園の漕艇場東側にある戸田市川岸の戸田橋親水公園。入り口にあるのは32(昭和7)年に建築された3代目戸田橋から移設した一対の親柱(市指定文化財)だ。美しい石積みでアール・デコ調の彫刻が施されている。
64年五輪では、10月7日に埼玉から東京に向かう聖火トーチがこの戸田橋を渡った。写真集「埼玉の昭和」(埼玉新聞社刊)には、橋を渡る直前のリレー隊の写真が掲載されている。そこには3代目戸田橋の親柱が煙を浴びながら歴史を見詰める姿があった。
最長2・4キロのボートコースがある戸田公園へ。漕艇場は、開催が決定されながらも中止となった40年東京五輪の会場の一つとして、40(昭和15)年に完成した。改修工事を経て、64年五輪でボート競技が開催された。ドラマや映画のロケ地で有名な漕艇場は、五輪レガシーだったのだ。
そして園内には最大直径1・4メートル、高さ1・4メートルの聖火台が設置されている。小型レプリカかと思いきや、64年五輪で旧国立競技場の聖火台から分けた炎を、この聖火台に点火し、ボート競技が終わるまでともし続けたという。
最後に向かったのは川口。東京五輪の象徴となった旧国立競技場の聖火台が里帰りし、話題を集めたJR川口駅前に行くと思いきや、着いたのは同市の青木町公園。石橋さんは「そもそもこっちが『第1号』の聖火台なんです」と自慢げに明かす。
川口の鋳物師(いもじ)、鈴木万之助・文吾さん親子(いずれも故人)が過酷な条件の中で聖火台を作った話は有名。親子が最初に手掛けた聖火台は、溶けた鋳鉄が流れ出し失敗。落胆した万之助さんは亡くなるも、文吾さんは新たな鋳型を制作し、見事に聖火台を完成させた。その時、破損した第1号を修復して同公園に設置しているという。
石橋さんは「55年前のことなので、『なぜここに』と理由が分からないものも多い。でも実物を見れば、当時五輪に熱狂した人の思いが伝わってくるはず」と話した。
■メモ
新座市営墓園 新座市新塚1の5の1 西武池袋線大泉学園駅や東武東上線朝霞駅からバスが出ている。
戸田橋親水公園 戸田市川岸3の7の7。
県営戸田公園 戸田市戸田公園地内 JR埼京線戸田公園駅から徒歩20分。
青木町公園 川口市西青木4の8の1 西川口駅や川口駅からバスが出ている。
■石橋さん略歴
1979年東京都生まれ。畑の真ん中にある巨大ボウリングピン(川越市)など独自の視点で面白スポットを紹介するフリーライター。著書に「埼玉のアナ 東上線沿線和光-川越編」(まつやま書房)がある。2020年東京五輪では、道案内や埼玉の魅力をPRする都市ボランティア研修の講師も務めている。