山梨に挑戦状「ほうとう対決」勃発、“煮ぼうとう”が全国クラスに 独特のとろみに隠された女性の特有事情
日本近代資本主義の父、渋沢栄一は晩年、毎年秋になると故郷・血洗島(現深谷市)の諏訪神社例大祭に足を運んだ。獅子舞を見物し、生地の「中の家(なかんち)」に宿泊。煮ぼうとうを好んで食べたという。
「地元の人はぜいたくな料理でもてなしたかったでしょうが、渋沢さんは郷里の味が食べたかったんでしょうね」。渋沢栄一記念館学芸員の馬場裕子は話す。農家に生まれ育った渋沢。若い頃に家族らと食べた煮ぼうとうが“心のごちそう”だったのだろうか。
1931年に渋沢が亡くなる。「八基(やつもと)村誌」によると、命日の前夜に地元の人たちが中の家で「煮ぼうと会(え)」を開き、遺影に煮ぼうとうを供えたという。この行事は今も受け継がれ、八基公民館で命日の11月11日に開かれている。
武州煮ぼうとう研究会の前会長の根岸祥次(75)は深谷市内の造り酒屋で生まれた。一家は中の家と懇意にしており、祖母が「中の家の煮ぼうとうはうちと違う」と話していたことを覚えている。「東京からお客さんが来るので、だしに昆布を使ったり、鶏肉が入っていたり…」。今では一般的な具だが、当時の農家は自給自足が原則だったので、ぜいたくに映ったようだ。
畑作が中心の深谷。昔の農家では、夕飯時になると奥さんが一足早く帰って食事を準備した。小麦で打った麺、具はネギやダイコンなど畑の野菜をたっぷりと。味付けはしょうゆ。空腹で帰ってくる家族のために、とにかく早く。生麺を打ち粉が付いたまま一緒に煮込むので、汁にとろみが出て、食べると体が温まる。
翌朝、残った煮ぼうとうは「ゆんべ(夕べ)の煮ぼうとう」と呼ぶ。温かいご飯にかけて食べたり、「たてっかえし」といって煮詰まった汁にお湯を足して煮込んだり。「麺が汁を吸って味がのり、ネギはとろっとして、おいしいんだよね」とほほ笑む。
戦後の食生活の変化で、家庭で煮ぼうとうを食べる機会は減っていく。復権を目指して、2003年に市内の有志が煮ぼうとう研究会を立ち上げ、山梨県のほうとうに“挑戦状”をたたきつけた。
この年の11月、甲府市の昇仙峡ほうとう会館を深谷市産業祭に招き、“ほうとう対決”が実現する。僅差で甲府に軍配が上がったものの、民放ラジオで実況中継され、「ラジオを聴いた人がわんさか詰めかけて、大成功だったよ」と根岸は振り返る。これを契機に一気に全国区となった。
深谷の味といえば煮ぼうとう。渋沢翁も現代の市民も愛する郷土の料理だ。(敬称略)
■市民有志が普及活動
一般的にご当地グルメの団体は関係の飲食業者で構成することが多いが、武州煮ぼうとう研究会は自営業者や主婦、元公務員など市民有志が活動しているのが特徴だ。会員数は35人。市内外のイベントで煮ぼうとうを提供しており、コロナ禍前は最も多いときで年間30以上のイベントに参加した。中でも、ふかやシティハーフマラソンでは3時間で7千杯を提供しているという。
市産業祭の“ほうとう対決”はその後、麺類のグルメイベントとして「N―1グランプリ」と改称。群馬県伊勢崎市のおっきりこみ、本庄のつみっこなども参加し、深谷の煮ぼうとうは10連覇を果たした。2007年に行田市で開催された「第1回埼玉B級ご当地グルメ選手権」でも初代王者に輝いた。
家庭料理の印象が強い煮ぼうとうだが、同会の活躍に歩調を合わせるように、深谷市内で煮ぼうとうを扱う店も増えていった。市が製作した「深谷煮ぼうとうMAP」には、そばやうどん店、割烹(かっぽう)から、居酒屋やカフェまで22店が掲載されている。
ネギなど根菜類が中心の具材で、しょうゆ味の煮ぼうとうがほとんどだが、最近はシーフードとトマトを具材にしたり、マーボーや豆乳味などニューウエーブも登場している。