原発さえなければ…三者三様、それぞれの選択 福島・飯館村の畜産・酪農家の10年描く 30日、埼玉で初上映
「原発さえなければ」―。東日本大震災の東京電力福島第1原発事故で、全村避難を余儀なくされた福島県相馬郡飯舘村の畜産・酪農家の3人の女性の10年間を追い続けたドキュメンタリー映画「飯舘村 べこやの母ちゃん―それぞれの選択」(180分)が、全国で自主上映され、反響を呼んでいる。埼玉県内で初めての上映会が30日、さいたま市内で開かれる。監督は古居(ふるい)みずえさん(75)。高線量の放射性物質が降り注いだ村で、手塩にかけた牛(べこ)の屠畜(とちく)を強いられ、家族との暮らしも奪われた3人が悩み苦しみながらも前を向き、たくましく生きてきた記録だ。
ブランド牛の生産地として知られた飯舘村。3人は、この村で30~45年間にわたり、牛と共に生きてきた。古居さんは彼女たちに密着し、寄り添いながら撮影を進めた。映画は3部構成。第1章「故郷への想い」は、中学から45年間、牛飼いに携わってきた中島信子さん。古居さんが2011年5月、中島家を訪ねた日は、乳牛を手放す最初の日だった。トラックに次々と運ばれる牛の傍らに信子さんがいた。「牛が話せたら何と言う?飼い主以上に悔しくてたまんないと思う。まだ働けるのに、殺されるんだもの。ごめんな。手足が半分から裂かれる気持ち」。初対面の古居さんに涙ながらに訴えた。
同年7月、信子さんは、母と夫と共に隣接する相馬市の仮設住宅に避難。高齢の母は3カ月で亡くなった。信子さんは週の半分を夫と飯舘村で過ごすようになる。14年6月、ようやく除染が始まる。畑は石混じりの山砂と入れ替えられた。夫は「作物が育つわけない」と靴で畑の石を突いた。夫婦は1年かけて自力で土を入れ替え、現在は、試行錯誤しながら花卉(かき)園芸に取り組んでいる。
第2章「べことともに」は、酪農家に生まれ、畜産家の夫と結婚し、子牛を育ててきた原田公子さん。多くの仲間が廃業を決める中で、飯舘村から100キロ離れた中島村に移住し、牛飼いを続けた。「ここで牛を手放すのは、国と東電に殺される気がするから」と決意した。
第3章「帰村」は、結婚後、牛飼いになった長谷川花子さん。35年間、酪農を続け、事故当時は義両親や長男夫婦と孫、次男の8人家族。事故後、長男夫婦は千葉県へ避難し、家族はバラバラになった。除染は14年4月。作業を見守った花子さんは「手抜きがすごい。帰ってきても再生できない。私たちは人間じゃないのかな」と話す。それでも夫や仲間と旧牛舎跡にコンクリートを張り、新たにそばの加工工場を立ち上げた。そばは一級品と評価されたが、夫は間もなく甲状腺がんで他界。工場は息子や仲間が継いだ。花子さんは今、原発後の記録を残そうとしている。
国は、原発の再稼働にかじを切ったが、古居さんは「母ちゃんたちの人生を通して、原発事故は何だったのか、何をもたらしたのか、考えるきっかけになればと思う」と語っている。
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上映会は、午後0時半から同市中央区の県男女共同参画推進センター(With Youさいたま)で。上映後、古居さんのトークもある。入場無料。主催は、県内に避難した被災者を支援しているNPO法人埼玉広域避難者支援センター。問い合わせは、同センター(電話0120・60・7722)へ。
■古居みずえ
アジアプレス・インターナショナル所属。中東パレスチナの女性や子どもを30年以上取材し続けている。映画「ガーダ パレスチナの詩」で第6回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞ほか、受賞多数。著書多数。本作は「飯舘村の母ちゃんたち」シリーズの2作目。