埼玉新聞

 

血を流したような熊谷の空 空襲体験者、高齢化に危機感 語り継ぐ戦争の記憶…高校生らが取材、生の声聞く

  • 戦時中の資料を手に戦争を体験を話す高城三郎さん(右)と、取材をする熊谷女子高校日本史部の生徒たち=7月29日午後、熊谷市末広2丁目の県立熊谷女子高校

 終戦前夜の1945年8月14日深夜、熊谷の市街地を焦土と化した熊谷空襲から75年。「熊谷空襲を忘れない市民の会」が編集を進めている本「最後の空襲・熊谷」の企画の一つとして、高校生が空襲体験者に話を聞いている。体験者の高齢化が進む中で、若者たちに“歴史のバトン”を託す。

■血を流したような空

 7月29日の放課後、県立熊谷女子高校の教室で、日本史部の部員10人が熊谷空襲の体験者に話を聞いた。話者は熊谷中学(現熊谷高校)の生徒だった高城三郎さん(91)と、女子監視隊として防空監視業務に当たっていた夏苅(なつかり)敏江さん(92)。

 熊谷空襲があった夜、高城さんは自宅があった行田で、米軍爆撃機のB29が焼夷(しょうい)弾を投下する音を聞いた。焼夷弾は弾薬が詰まった金属製の筒が三十数本まとまったもので、上空で散開し炎を噴き上げて地上を襲う。

 「ざーっと夕立のようで、私の頭の中に落ちてくるような気がした」。高城さんの家は無事だったが、避難した場所から熊谷の方角を見ると「(空が)真っ赤で血を流したような色だった」。

 眠れぬ夜が明け、日本の敗戦を伝える玉音放送を聞く。軍国少年だった高城さんは「軍人になって国のために命を捨てるつもりだったから、気が抜けた。『俺は畳の上で死ぬんだ』と複雑な気持ちだった」と振り返った。

 最後に部員の1人が「今の私たちに伝えたいことは?」と質問。高城さんは「私たちは歴史の中に生きている。何が原因でこの結果になったのか、歴史を勉強してほしい」とメッセージを伝えた。

■熊谷空襲「知らない」

 熊谷空襲を忘れない市民の会は2015年に発足し、イベントや平和講座を年2回開いている。2年前に熊谷空襲の体験者の講演会を市内で開いたときのこと。戦跡のパネル展示を担当していた吉田庄一さん(66)が、来場者の男子高校生に話し掛けたところ、熊谷空襲のことを知らなかったという。

 「そもそもこうしたイベントに若い人はあまり来ない。(戦争の記憶を)どのようにつないでいくかが重要」と吉田さんは言う。熊谷空襲75年に合わせて「最後の空襲・熊谷」を出版することになり、高校生が空襲体験者を取材する企画をメインに据えた。

 熊谷女子高の日本史部のほか、小川高校社会研究部、伊奈学園総合高校歴史研究会の生徒らが戦争体験者5人から話を聞いた。熊谷女子高は空襲で被災し、校舎を焼失している。同高日本史部員の1人は「今、私たちが何気なく見ている熊谷の景色が当時は真っ赤に燃えていたのだと思うと恐怖で胸が痛くなる」と感想を寄せる。

 日本史部ではさらに熊谷空襲のことを調べ、秋の校内発表会で発表する予定だ。部長の猪鼻桃寧(いのはなももね)さん(16)は「熊女生や親の世代にも伝えたい」と話す。

■危機感がばねに

 市民の会共同代表の米田主美さん(75)は「高校生たちは周りに語り継ぐ人がいなかっただけ。生の声として受け留めてくれた。空襲を実際に体験した人の話は迫るものがあり、恐怖感が伝わってくる」と言う。その一方で空襲から75年がたち、体験を語ることができる人は大きく減った。75年に熊谷市文化連合がまとめた「市民のつづる熊谷戦災の記録」には171人の空襲体験が収録されているが、その多くの人たちは鬼籍に入っている。

 「危機感が活動のばねになっている」と語る吉田さん。「(高校生が空襲体験者に聞く企画を)1回で終わらせたくない。近隣の高校も含め、若者たちに知ってもらう橋渡しをしたい」

■熊谷空襲 終戦前夜の1945年8月14日午後11時半ごろ、米軍のB29爆撃機約80機が熊谷に飛来し、約8千発の焼夷弾を投下。熊谷の中心市街地の約3分の2を焼失した。被災戸数は3630戸。死者は266人、負傷者は約3千人に及んだ。猛火から水を求めて星川に逃げ、大勢の人が命を落とした。熊谷市は県内で唯一の戦災指定都市となり、県の直轄事業として戦災復興が実施された。

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