埼玉新聞

 

目前で撃たれた友、生涯に深く影響 同じ子どもがなぜ…満州から戻った幸手の男性、解けないわだかまり今も

  • 満州での体験を語る江森信市さん=幸手市

 幸手市の江森信市さん(84)は2歳の時に家族と満州に渡り、現地で中国人の子が目の前で殺されるという衝撃的な体験をした。「満州で中国人は人間扱いされていなかった」と振り返る江森さんだが、帰郷して自身も言われなき差別を受けた。「同じ地域に住む同じ子どもがなぜこんなことに」。胸のわだかまりは今も解けない。

 江森さんは幸手で生まれ、2歳の時に父母と家族3人で満州に渡り、幼年期を中国・満州のハルビン近くの土地で過ごした。

 父の久弥さんは南満州鉄道に勤務。満州は寒さが厳しく、玄関からスケートができた。防寒帽が息で凍り、トゲで顔が傷だらけになったという。

 そんな江森さんに、その後の生涯に深く影響を与えた体験があった。4、5歳の頃、江森さんとけんかをした中国人の子どもが翌日、日本人の大人に銃で殺されたのだ。「日本人とけんかしている」というのが理由だった。

 「昨日まで一緒に遊んでいた友だちが目の前で撃たれて死んだ。撃たれた子どもは飛び上がり、倒れて血を流した。ものすごく恐ろしかった。今でもあの時のことを思い出す」

 1944年、母が満州で病死すると、久弥さんは内地に母の骨を埋めることを理由に、幸手に帰郷した。

 「日本が負けることは目に見えていた。満州の最前線にいるより、親父は内心、日本に帰りたがっていた。あのまま満州に残っていたらどうなっていたか」

 45年、日本の敗戦とともにソ連軍が満州に侵攻。満州に残された邦人は、軍の後ろ盾を失い、厳しい末路をたどった。戦後、江森さんは中国残留邦人をはじめ、当時の知り合いを探したが、誰一人見つからなかったという。

 幸手に帰った江森さんは、満州から戻ってきたというだけで「お前、朝鮮人だろう」と周囲から言われのない言葉を浴びせられた。

 差別する側とされる側の双方を経験した江森さんは、「結局、一部の支配層が自分の利益をむさぼるために国民を手足のごとく満州に送った。開拓と言っても、中国人の畑を取り上げただけだった。満州で中国人は人間扱いされていなかった」と振り返る。

 江森さんは大学卒業後、中学校の教員として、埼玉や茨城で教壇に立った。教室には親がいなかったり、生活が苦しい子どもたちがいて、“格差”があった。そんな状況を見ると、満州で感じた矛盾が重ね合わさった。

 「同じ地域に住み、同じ子ども、同じ人間なのに何でこんなことになるのかなあ」。幼い頃に抱いたやるせなさは今も消えない。

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