埼玉新聞

 

<埼玉西武だより>ファン満足、ファン獲得の道へ 営業部部長・高木大成、背中押してくれた大歓声に恩返し

  • 勝負強い打撃で魅了してきた高木大成は今、営業部部長としてファンへの感謝の思いを胸に仕事にまい進する(球団提供)

 1997年の5月、高木大成(現営業部部長)は、福岡ドームでのダイエー戦の前に東尾修監督に呼び出された。場所は宿舎の監督部屋の中。

 「一塁に行ってくれるか?」。当時捕手だった高木は、正捕手の伊東勤(現中日ヘッドコーチ)の存在の大きさを感じながらも、およそ計7年間務めたポジションへのこだわりが強かった。

 一方で、高木の打力を生かしたい、守備面に不安を抱えていた一塁手マルティネス(当時)を指名打者に専念させたい、チーム事情があった。

 東尾監督のコンバート指令にうなずいた高木。「チームのために」と、キャッチャーミットを置き、その日から「中学生以来」という一塁を守った。終わってみれば、打率2割9分5厘でゴールデングラブ賞を獲得。新生ライオンズのV1に貢献したのだった。

 翌年、開幕から一塁のレギュラーに定着すると終盤、ここぞの場面で勝負強い打撃を連発し、自己最多の17本塁打をマーク。10ゲーム差からの大逆転優勝の立役者となり"不動の3番"を恣(ほしいまま)にした。

 同年の日本シリーズ第1戦には甘いも苦いも凝縮された思い出がある。「実は前々日くらいから体調が悪くて…。頭痛に関節痛、前日はホテルに隔離されていましたね」

 38度の熱を押して出場すると相手エースから本塁打。さらに八回には四球で出塁し、二盗でチャンスメーク。ところが、三盗に失敗し、追い上げムードが止まった。「200パーセント、セーフにならなくてはならない場面。あの試合に勝っていれば、日本一になれたかもしれない…」。あの盗塁死は、今でも脳裏に張り付いて離れない。

 そんな高木は、2005年に現役引退後、「ライオンズがライオンズであり続けさせてくれた人たち、いわゆるファンへの恩返し」を誓い球団職員に転身。当時、コーチやスカウトなど球団から現場の仕事も提示されていた中、人生の局面に自ら「ファン満足、ファン獲得」への道を選んだ。

 けがに悩まされ、復活するたびに背中を押してくれた大歓声を「うれしいを超えていた。感謝の言葉しか見当たらない」と表現した高木ならではの選択だった。「90年代、ライオンズは黄金期。今は当時を知らないファンの方も増えてきています。今、一生懸命応援していただいているファンの皆さまにお返しがしたい。あの時のような黄金時代を見せたいんです」

 現在、球団の営業部としてテレビやラジオの放映権を担当。あの時のV2を超える感動を全国のライオンズファンに届けるため、前例のないシーズンを奔走していく。

 (埼玉西武ライオンズ広報部・田代裕大)

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