冠二郎さん死去、高校時代は「秩父高校の橋幸夫」と呼ばれ有名 上京後は約10年苦労「この歌が売れなかったら秩父へ帰ろう」と決めた一曲「旅の終りに」ヒット 大物になっても律儀、地元に毎回差し入れ「深く感謝、大変な驚き」
1日に心不全で亡くなった演歌歌手の冠二郎さんは、地元の県立秩父高校を卒業後、演歌の花道を一心不乱に突き進んだ。1967年のデビュー後も、積極的に秩父の行事に協力し、地域活性化に貢献。市民らは「地元のヒーローとして愛され、郷土の誇りだった」と、突然の別れを惜しんだ。
冠さんは高校在学時から、俳優でミュージシャンの橋幸夫さんに憧れ、将来の夢に「演歌歌手」を掲げていた。昼休みや放課後は、学校の屋上で橋さんをまねて歌唱。その姿から「秩父高校の橋幸夫」という名が広まった。
高校卒業後に上京。地元の衆院議員で運輸大臣も務めた故荒船清十郎さんを頼ったりしながら、音楽事務所に所属し、悲願の歌手デビューを果たす。全国各地のキャンペーン会場や、キャバレーなどの舞台に立って知名度向上を図ったものの、なかなかヒット曲に恵まれず、苦労する日々が続いた。
「この歌が売れなかったら秩父へ帰ろう」。覚悟を決めた一曲が、作家の五木寛之(作詞家名・立原岬)さんが作詞した「旅の終りに」だった。テレビドラマの劇中歌としてヒットし、苦節約10年の努力がようやく報われた。
冠さんの故郷、八幡町会(秩父市下影森)の小沢良一会長(71)は「年が離れていたので、深い交友はなかったが、ずっと陰ながら応援していた。地域に有名人はなかなかいないので、ヒーローを失って残念」と悲しむ。
売れない時期も、小沢さんの両親や地域住民は毎回レコードを購入し、活躍を待ち望んでいた。ヒット後も「二郎さんの気さくで律儀な性格は変わらなかった」と小沢さん。同町会で祭事を行う際は毎回、「冠二郎」名義でさまざまな差し入れが届けられた。
市の観光大使として長年、地域振興にも寄与。北堀篤市長は「突然の訃報に接し、大変驚いている。観光大使としてご活躍いただき、深く感謝するとともに、心よりご冥福を祈りたい」と悼んだ。