食べ頃は2時間後! 「陸稲」と老舗しょうゆ店…地元の特性が合致、変化しつつ現代へ 所沢の「焼だんご」
じゅっ。熱を蓄えた鉄製の焼き台に、しょうゆが触れる。香ばしい匂いはうちわの風に促されて宙に放たれ、鼻腔(びこう)の奥をくすぐってくる。埼玉県所沢市上新井の「山口屋だんご店」は、地元の名物「焼だんご(焼き団子)」を手作りし、販売している。「おいしいものを作り食べてほしいということが、頭から離れない」。店主の金子初江(77)は語る。
長さ約17センチの竹串が貫く四つの団子。きめ細かな米の粉を湯と共に機械で固め、たらいに移してこねる。それを直径約3センチの玉に丸めて串に刺していく。冷蔵庫で寝かせて蒸し上げ、仕込みを終える。
6本下さい―。注文が入った。焼き台の上に、金子は真っ白な状態の団子を並べる。岩手県産のナラの炭であぶるうちに、ほんのりと焼き目が生まれる。
うちわの出番だ。金子は炭火に、ぱたぱたと風を供給しながら、手際よく串を回す。焼く時間に決まりはないが、「10本を焼くのに10分ぐらいかける」という。
焼き台の脇で、さりげなく存在感を醸し出す茶色のつぼ。市内の「深井醤油(しょうゆ)」のしょうゆで満たされている。社長の深井隆正(38)によれば「焼くと香ばしくなるように、こくが強い」点を特徴にする。
金子が「まろやかな味」と表現するこのしょうゆに、団子を焼く過程で計3回、くぐらせる。そのたびに四つの球体は、照りのあるあめ色へと姿を変えていく。
一口かんだ団子は、確かな弾力を返してくる。焼きたては無論、しなやかで味わい深い。ただ、金子は「焼いてから2時間ぐらいたった団子が食べ頃」と薦める。冷めた状態の方が、より弾力を楽しめるからだという。
山口屋だんご店は、金子の祖母が1906(明治39)年、所沢駅に近い北秋津に創業した店をルーツに持つ。金子は小学校から帰宅してかばんを置くと、焼き団子作りを手伝っていた。ノウハウは「体で覚えた」という。
かつては地元の畑で収穫した陸稲(おかぼ)の粉を使っていた。材料は半世紀ほど前に水稲に代わったが、焼き団子の作り方は「北秋津の店で作っていた時とそっくり同じ」だそうだ。
狭山市内で妹と開いた団子店を経て、現在の店舗を持った。実家の店は閉じて久しいが、所沢駅に隣接する一角には金子の焼き団子が並ぶ。
「弟子」は2人いる。だが今のところ店の後継者はいない。「団子店に興味がある人は多い。でもまだ企業秘密を教えるのはちょっとなあ…」。難しいところだ、と笑った。(敬称略)
■農作業の間食として
「焼だんご(焼き団子)」が、なぜ所沢の名物となったのか。詳しい経緯は判然としていないが、団子が親しまれた背景には土地の特性と浅からぬ関係があるようだ。
所沢市は武蔵野台地の上に位置する。水田を営む土地が少なく、陸稲(おかぼ)が多く栽培されてきた。市史によると、1955年ごろの陸稲の栽培面積は835ヘクタールで、水稲の作付面積の約5・6倍を占めていたという。
陸稲はそのまま炊いて食べると、ぱさぱさした。そこで粉に引き、丸めて焼いた。それが団子として親しまれた。農作業時の間食として消費され、やがては店で売られるようになったと考えられている。市内の老舗しょうゆ店の存在も後押ししたとみられる。ちなみに、現代の所沢の焼き団子では陸稲は使わず、各店が米の粉を仕入れて作るのが一般的だ。
明治時代には焼き団子の組合があり、竹串には青竹を使うことや1串当たりの団子の数を4個とするなどの申し合わせをしていたと伝えられる。
市内で開かれる催し「所沢市民フェスティバル」には、焼き団子の店舗が参加してきた。市はガイドブック「おさんぽナビ」に市内の焼き団子店6店舗の情報を掲載し、それぞれの味や特徴をアピールする。