涙した女性…少女時代に学校で気絶、気付くと友達全員死亡 戦後76年、生き残って悩み、今は孫に恵まれる
梅雨の晴れ間の7月10日、さいたま市南区の別所沼公園。76年前に広島で被爆した木内恭子(ゆきこ)さん(85)=川口市=は県原爆死没者慰霊の碑を背に、「青い空は」「折り鶴」「原爆を許すまじ」など5曲を埼玉合唱団約20人と一緒に歌った。合唱の映像は同25日に開催された県原爆死没者慰霊式の会場内で映し出された。
市内の最高気温が34・5度を記録する酷暑の中、新型コロナウイルス感染防止でマスクを着けたままの合唱。木内さんは大粒の汗を拭いながら、思いを語った。「みんなが一緒に心を込めて歌ってくれて、自然に涙が出てきた。映像だけれども思いは届く。願いは一つ、核廃絶」
■助けて、助けて
1945年8月6日午前8時15分。当時9歳だった木内さんは爆心地から約1・6キロ離れた小学校の分校で、友達の女の子6、7人と石蹴りをして遊んでいた。ピカッ。強烈な光を感じて気絶する。息苦しさを感じて気が付くと、がれきの上で、自分一人だけが座っていた。周囲を見渡すと、建物は全てぺしゃんこにつぶれ、あちこちで火の手が上がっていた。一緒に遊んでいた友達は誰もいなかった。
「何が起きたのか分からず、じっとしていた」。最初は真っ暗だったが、少しずつ夜が明けるように明るくなっていく。爆風で倒壊した家々から、「助けて、助けて」と言いながら、血だらけで服の破れた人たちがはい出てきた。原爆の熱線を受けたのか、顔はやけどで膨れ上がった状態の人もいた。近くの川には無数の遺体が浮き、水面は分からないほどだった。
自身は奇跡的にほとんどけがはなかった。2歳上の兄は大やけどを負ったが、手厚い看護を受け、家族は全員無事だった。まともな治療を受けられずに、大勢の人が亡くなったことを後に知る。一緒に遊んでいた女の子たち、別の場所で遊んでいた男の子たちは帰ってこなかった。「とにかく悲しかった。自分は一人助かり、苦しんだ人や亡くなった人に申し訳ない。生き残って、どうすればいいんだろうと悩んだときもあった」
人を助ける仕事をしようと考え、高校卒業後に看護学校へと進む。茨城、東京、埼玉の病院で長く看護師として勤務した。その間に結婚して一人娘を授かる。原爆による見えない放射線への恐怖は常にあった。「どんな子どもでもしっかり育てなければ」という気持ちだった。元気に生まれた娘は無事に育ち、結婚して孫3人にも恵まれた。
■核なき世界を求めて
核兵器禁止条約が今年1月に発効した。全ての国に条約参加を求める「ヒバクシャ国際署名」などの活動で、「戦争があったの」「原爆はどこに落ちたの」と、木内さんは聞かれたことがあるという。学校で戦争と原爆を教えず、知らない人が増えているのではないかと危惧している。
県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の副会長を務める木内さんは、多くの会員らと語り部活動を長く続けてきた。高齢化が進む被爆者は近い将来、この世界からいなくなる。「動ける人間が少なくなってきている。一人の力では何もできないけれど、一人が少しでも必要なことを行えば大きな力になる」。核なき世界を求めて、命のある限り被爆の実相を伝えていく。