びっくり…川越の軍需工場で造られた地雷、手榴弾は「陶製」 戦後76年 物資不足、弱い殺傷力に当時動揺
物資が不足していた戦時下、金属に代わり陶器に火薬を詰めた「陶製手榴弾(しゅりゅうだん)」が、川越市内の軍需工場で造られていた。元勤務員を取材した記録映像「陶製手榴弾」を2006年に制作している川越南ビデオクラブの鈴木松雄代表(80)=同市宮元町=は「(映像中)みんな、平和が一番だと語っていた。この証言録から戦争はするものでないと改めて感じる」と話す。
陶製手榴弾は、旧陸軍造兵廠川越製造所(ふじみ野市)の下請け工場だった浅野カーリット埼玉工場(川越市萱沼)で1944年夏ごろから製造された。戦局が激化し、寺の釣り鐘など金属類の供出を求められた当時、物資不足を補うため、金属の代用品に陶器が使われた。
丸型の陶製容器の口に挿した漏斗から黄色火薬を入れ、割り箸のような棒で火薬を押し込む。口に起爆用の信管を取り付けた簡易な仕組みだった。金属製と比べて殺傷力は弱く、勤務員もこれが実戦用兵器かと動揺したほどだった。陶器は信楽焼や有田焼など全国の焼き物産地から集められてきた。陶製地雷、発煙筒、えい光弾なども同工場で造られていた。
川越市で生まれ育った鈴木さんは中学を卒業してすぐに大工になった。8ミリビデオなどの撮影が趣味で、40代の時に市内の公民館で催されたビデオ講習会を受講。受講仲間と川越南ビデオクラブを創設した。記録映像「陶製手榴弾」は終戦60周年を機に制作した。
「建築の基礎工事をしていた時、陶器がゴロゴロ出てきた。びっくりして関係者から話を聞きたくなった」と鈴木さん。「捜し出した関係者は皆さん高齢だった。今、話を聞き、記録を残しておかないといけない」と考えた。終戦後、元勤務員が陶製兵器の破片を自宅の敷地に砂利代わりに敷いたり、陶製容器を花壇の仕切りに置いたりしていることが分かった。
軍需工場に勤めていた市内に住む男女6人から体験を聞き、映像に収めた。みんな当時の話を受け止めてほしいような感じだった。「今、自分が話しておかないと歴史が埋もれてしまう、と思ったのかもしれない」。元勤務員も身近であった戦史が風化してしまうことを危惧していた。工場で自身が製造していた兵器の話になると、目の色を変えて語りだす女性もいた。
終戦時、陶製手榴弾は未完成品も含め約500トンあったという。米軍の要請で陶製兵器は粉々に壊され、近くを流れるびん沼川に投棄された。今も川岸で大量に見つかっている。
話を聞いた6人に存命している人はいない。鈴木さんは「元勤務員の声や姿を映像で後世に残すことができた。6人にありがとうございました、と伝えたい」と話している。