亡き母親「兵隊さんに渡したい」 埼玉・旧制中学の生徒と上官か…手掛かりない写真、家族の投稿も反応なし
戦後76年。川島町吹塚の吉田静子さん(83)の手元に、戦時中に家族と兵士らが写った写真がある。「亡き母親が『この方々に渡したい』と言っていた」。吉田さんは終戦記念日を前に、写真を短文投稿サイト「ツイッター」にアップするなどしたが、反応はなかった。「心当たりの方がいらしたら連絡してほしい」と話している。
吉田さんは、同町で生まれ育った。実家は旧八ツ保村で、旧姓は松本。写真は前列に両親と兄弟3人と本人、後列に軍服姿の3人の男性が写っている。写真の裏面には「昭和十七年十一月撮影 不動岡中学校 ※合演習宿泊記念」と書かれている。
吉田さんは当時4歳で、その時の事はよく覚えていない。写真は40年以上前、母親・ちよさんから「泊まった兵隊さんに渡したいが、手掛かりがない。おまえが持っていろ」と託された。ちよさんから聞いた話では、松本家に泊まった3人は「上官と食事係」だった。夜中に「どこからか『すぐ帰れ』との連絡があり、兄弟たちと一緒に起こされ記念写真を撮った」という。
当時、旧制不動岡中学校(現県立不動岡高校)の生徒が何の演習に参加したのか、「上官」らの所属・階級、松本家に何泊したのか、詳細は分からない。町史には、その頃、別の旧制中学校の生徒らが出征兵士の農家に援農動員された記述はある。また近くには「熊谷陸軍飛行学校桶川分教所」もあった。
今年、ちよさんから託された写真を思い出した。「どこの人か知りたくなった。(兵士は)もういないかもしれないが、お子さんやお孫さんがいれば」と話す。手掛かりがないので、家族の協力でツイッターに投稿するも「何の反応もなかった」という。
戦後76年経つが、吉田さんは今でも空襲警報で地面に伏せたり、東京大空襲(昭和20年3月10日)で東京方面の夜空が明るく真っ赤になった事や、終戦の日(同8月15日)にラジオを聴いていた親が「負けたって」と言ったのを鮮明に覚えている。
「すごい、大変な時代だった。戦争は良くないよね」
※は「併」のにんべんを耳へんに替えた字。