2021年正賞・準賞発表
埼玉文学賞とは
埼玉新聞社創刊25周年を記念して1969年に制定した「埼玉文学賞」は文学を志す人たちを長年にわたり支援してきました。今年で52回。毎年幅広い年代から作品を集め、県内外から注目される文学コンクールです。小説、詩、短歌、俳句の4部門。埼玉りそな銀行から特別協賛をいただいております。
第52回埼玉文学賞審査員
小説部門 | 須賀しのぶ | 新津きよみ | 三田完 |
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詩部門 | 木坂涼 | 北畑光男 | 中原道夫 |
短歌部門 | 沖ななも | 金子貞雄 | 内藤明 |
俳句部門 | 鎌倉佐弓 | 佐怒賀直美 | 山﨑十生 |
小説部門正賞
入間川
アグニュー恭子(44)=あぐにゅー・きょうこ=ベルファスト(英国)
戦後文壇の寵児の一人であった坂口安吾が埼玉県入間郡(現日高市)にある高麗(こま)神社を訪れたのは、昭和二十六年の十月、ちょうど彼が「安吾の新日本地理」を連載していたときのことである。もともと古代の渡来人の歴史に興味の深かった安吾が、作家仲間にして長年の知己でもある檀一雄と雑談するうち、関東一帯の渡来人の守護神を祀り、千三百年の歴史を湛える神域に、ぜひ足を運ぼうという話になった。思い立ったが吉日、檀邸のある石神井から、西武線に乗って飯能で乗り換えて、二駅目が高麗駅。当時も七十年経った今でも高麗神社へ至る経路に変わりはないが、二人の無頼の作家と一人の編集は、飯能で酷くのんびりした昼食をとったあとそこからタクシーを呼び、黄昏れてくるころに漸く、そのふしぎな渡来の守護神の棲み処に至った。
長い歴史を持つ神社ほど、途中で仏教との混淆を経ているものだから、この奇妙な附合を「宿縁」とか「奇縁」とか言っても、許されるだろうか。彼らが高麗神社を訪れたその日は、何の変哲もない十月の一日(いちじつ)かと思われたが、この社の神事の中でも最大の、獅子舞奉納のちょうど前日だった。翌日の舞の練習で、夕刻の神殿わたりは賑わっていた。
「これは随分、盛況だね」
人の足の遠のいた、廃れた古社を、気まぐれな秋の行楽で半刻も訪れるぐらいの気持ちだった一行は、大きく面食らった。
「誰か、話してくれる人を探してきます」
偶々(たまたま)訪れた日が年に一度の重要な神事と重なるときであったという幸運に俄然勇気づけられたのは、「安吾の新日本地理」の掲載紙の編集担当である中野君である。そもそも「安吾の新日本地理」は、安吾先生が全国各地を旅して回って得た見聞を書き記す連載であったから、先生がよく取材できるよう、土地の物知りに事前に根回しして案内を頼んでおくのが編集の大事な役目だった。今回はしかし、そこを訪ねようという話も急にまとまったため、あらかじめ頼んでおいた案内人などという者は、誰もいない。中野君はここが仕事のしどころ、と言わんばかりに、駆けるようにして社務所のほうへ消えて行った。
忙しい中、快く取材に応じてくれたのは、宮司の子息であるという若い神官だった。その物腰の柔らかい丁寧な神官氏に、神社の歴史、獅子舞奉納のいわれを説いて聞かされ、祭神である高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)から連なる高麗家の系図、社宝の大般若経写本などを見せられるにつけ、一同はこの歴史深い神社との幸いな縁にため息をついた。
「こりゃあ明日も、戻らんわけにはいかないね。カメラマンも連れてこよう」
社務所の外からは、勢いのよい獅子舞とは裏腹な、やけにもの悲しい調子の笛の音が聞こえてくる。安吾の耳には大層印象深く沁みたようで、それについては彼の著作に詳しい。
「もし宜しければ、地元の歴史に詳しい新聞記者の方を存じておりますので、明日はその人を駅にお迎えによこしましょう」
「それは有難い、ぜひよろしく」
親切な神官氏に案内人を手配してもらう約束まで取り付けられたので、その日はそれですっかり安心して、石神井の檀邸に戻ることにした。神域を抜ける前に、かつて神社を訪れた人々の記名帳を、一行は繰ってみた。
「太宰さんの名前があらあ」
「いかなるユエンで来たのか、意外だね」
二人の作家は、三年前に命を絶ったもう一人の悪友に思わぬ所で再会して、少ししんみりとなった。
「なんでもこちらは、出世の神様として高名だというお話ですから」
何の気もなしの中野君の呟きに、安吾も檀君も、答えるかわりに黙り込んだ。
翌日、二時から行事が幕開けると聞いていた一行は、前日よりはずっと早く、彼らにとっては精一杯なぐらいの早起きをして、檀邸でお弁当を持たせてもらって石神井を出た。飯能からタクシーに乗るという前日の怠惰は良しとせず、西武線を乗り換えて高麗駅で降り、そこから歩くことに決めていた。高麗駅から高麗神社まで、高麗川沿いにコマゴマと歩いたら小一時間ぐらいかかるらしいが、それも取材(ピクニック)の一環というところだろう。
「簡単に済ませてはいかん。神事に臨むには、それなりの態度というものがあるのだよ」
安吾隊長はオゴソカに言うのだが、中野君は檀夫人の握ったおにぎりの中身の方が気になる様子。かたや檀君は、同じ電車に神社を目指して乗り込んだ人の多さに感嘆している。
「では私たちは、先に神社でお待ちしています」
中野君と、新たに呼び寄せられたカメラマンの高岩君は、安吾と檀君の川沿い道草には付き合わず、一足先に神社について、写真をみっちり撮っておく算段だった。二人と別れて駅を出たところで多少まごついていると、
「坂口先生ですか」
と、声をかけてきた者がある。歴史に詳しいという埼玉新聞の記者は、見れば、二十代半ばほどの青年だった。檀君と安吾は、嘆息で合奏をした。眉目秀麗という四字熟語の、あまりによく似合う若者だったからだ。
胸元まできっちりとボタンの締まった糊のきいた白シャツに、気候に丁度よい厚手の綿のネイビーのジャケットを羽織っているのはいかにも格好よく爽やかで、当時としては立派な体躯を誇る二人の作家にも見劣りしない。
(ヒナの新聞記者とは、とても見えないや)
口には出さなかったが、これは貴人の相だ、と安吾は思った。前日に彼らを親切に教示してくれた神官も、静かな気品のある人だったが、この新聞記者君は、それにも超えるようだ。色が大変白く、上品な細面で、涼しい切れ長の瞳。だがきりりと通った太い眉根は、どちらかといえば武家的だ。そこらの男前にあるような、腺病質な軽薄さは微塵もない。堂々と頼もしくて、眩しい。
「神社まで、河原の方を通って行きたいんだが、いいかね」
「生憎そちらの道を行ったことはありませんので、ご案内とは参りませんが、お供します」
声もいい。甲高かったり野太かったりすることもなく、落ち着いて低いが、どこか透明感がある。こんなしっかりした気持ちのいい若者は、先の戦で根こそぎ死んで、残ったのは自分らのようなのらくらとした半端ものばかりだと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。ただし、その立派な若者も、道には等しく不案内で、結局彼を新たに加えた三人組は、行きつ戻りつ迷いながら、河原を歩いた。日ごろの不摂生のせいで、安吾にはそんなに楽な道ではない。
「随分蛇行しますね。これは入間川ですか」
息の乱れる安吾に気づいてか、歩きながらの雑談に、記者君が言った。あまりに屈託なく訊くものだから、安吾は、何とも思う隙もなく、答えていた。
「いや、この辺はずっと、高麗川と呼ばれるはずだよ。もっとも、下流の方では、入間川に合流するらしいがね」
「そうですか」
正確に言うと、高麗川は越辺(おっぺ)川に注ぎ、その越辺川が入間川に合流するのだが、それは一行が歩いている地点から遠く離れた、川越の辺りでのことだ。ただ、入間川と高麗川は、大きく蛇行しながら、互いに合流はせずとも、飯能辺りでは、かなり接近する。そんなことは、一行の誰も知らない。
「先生方は、高麗神社の歴史についてお調べなのでしたね。昨日は、コマさんといろいろ話されたとか」
「ああ、君が歴史に詳しいってんで紹介してもらったが、もっと教えてもらえるかね」
「コマさんは、私のことを買いかぶっておいでなのでしょう。ご覧の通りの若輩者ですから、何もそんなに、存じてはおりません」
記者君は涼しく謙遜したが、その後で、思いあたることがあった様子で口を開いた。
「社宝の大般若経はご覧になりましたか」
「ああ、見たよ。まあ、オゴソカな巻物を、ほんの少し開いてもらっただけだが」
「仏の教えを余さずあらわす、有難い経文です。数文字目にするだけでも、きっと後生の助けとなりましょう」
いい若者が随分抹香臭いことを言うものだから、安吾と檀君は顔を合わせて、苦笑した。後生などというものを、二人はまったく信じていない。
「あの経は、承久の頃に高麗氏の神官の一人が、下野(しもつけ)足利の鶏足寺(けいそくじ)という寺で、写したものだという話だったね。檀君は、足利に住んでいたことがあったろう。鶏頭ならわかるが、ニワトリの足とは、どういうイワレだい」
「さあ、名前ぐらいなら聞いたことはある気がするが、行ったこともないし、イワレなんぞは知りませんよ」
それは、経典を見せてくれた当の神官も首を傾げたことだった。それで二人が、この話題を始めた張本人のほうに頼みの視線を向けると、新聞記者君は、別段知識を誇る風でもなく、静かにぽつりぽつりと語り始めた。
「足利の鶏足寺は、もとは世尊寺と呼ばれていました。承久よりさらに遡り、桓武天皇が都を遷し給うてから何年もしない頃に建てられた、歴史の深い古刹です」
安吾と檀君は、ただ足を止めないことだけを心がけて、あとは記者君の心地よい声の昔語りにすっかり意識を預けた。記者君は、若く健康な体ゆえか、それともほかに特別な鍛錬でも積んでいるのか、起伏もありところどころ足元の悪い河原道を歩きながら絶え間なく話しても、息が全く乱れなかった。
「開基のころから関東指折りの密教の名刹でしたが、名が変わったのは、東国で平将門が反乱を起こしたときです。下野の押領使であった藤原秀郷が将門鎮圧を命ぜられますが、苦戦を強いられます。そこで秀郷の後押しとして、将門を調伏するための祈祷をするよう、都より世尊寺に勅命が下されました」
平将門の乱ということだから、西暦でいえば九百年代の前半になる。護摩を焚いて加持祈祷、十七日祈り通したその満願の日に、法印の夢に、将門の首をくわえた三本足の鶏が現れたという。目を覚ますと確かに、血塗りの鶏の足跡が、護摩壇に点々としている。はたして祈祷の甲斐あって将門は秀郷に討たれ、その秘法の霊験には都の覚えもめでたく、以来世尊寺は「鶏足寺」と名を改めた。
「なるほどね、もともと有難い大般若経の経文を、その密教の霊験アラタカな寺で高麗神社の神官が手ずから写されたというのだから、さぞかしご利益のあるものなのだろう」
半ば茶化すように、安吾はわざと大げさに感心してみせたが、彼が本当に感心していたのは、鶏足寺の歴史の深さや霊験のあらたかさではなく、若い記者君の知識だった。
「武蔵のみならず、下野の歴史にまで通じているとは、恐れ入ったね。出身はここいらなのかい」
「いえ、生まれは京都です」
「そのわりには言葉に訛りがないね」
「京都に一番長く住みはしましたが、両親はもともと東国の生まれで、私も幼いときから関東の各地を転々としましたから」
「そうかね」
話しているうちに、いかにも品があり、いかにもハンサムで、いかにも知的なその若者に、奇妙な引っ掛かりを安吾は覚えはじめた。いや、違う。万事華麗に流れるごとしで、どこも引っ掛かるところがない、それが引っ掛かる。立派な柱に支えられた吹き抜けの建物に風がごうごう通るように、または、白日に照らされて毛穴まで細かく見せるくせに影だけがないお化けのように、どこか不安になるような、不自然な滑らかさが彼にはあった。
慌てて足元を確かめたら、檀君と安吾のに並んで、確かに記者君の影も、河原の小石の上にのっぺりと映って、主が動くのと寸分たがわず、動いていた。安吾は息をついた。
もう随分歩いたと思われるが、高麗神社には、まだ着かない。蛇行した川沿いを歩くと、直線の道路より倍もかかるし、反対岸に渡る橋を探したり、上の道路に出る道を探したりと、いちいち迷うのだ。
「川は道より曲がるからなあ」
檀君は、内心じりじりし始めた安吾とは異なり、どこか呑気に言った。十月の好日だ。清々しく晴れ渡った空と、見事なほど澄んだ川の流れが、彼に疲れを溜めさせなかったのかもしれない。記者君も焦った様子などは一切なく、相変わらず涼しい顔で、先ほど口の端に上らせた川の名を、再び口にした。
「入間川も、このようによく曲がります。東へ行ったかと思えば西へ、そうかと思えば南へ、と」
「そうかね」
「先生は、『入間川』という謡曲を、ご存じですか」
「知っているが、謡曲じゃない。『入間川』は、狂言だろう」
「そうですか」
安吾は、彼のトレードマークであるぎょろりとした目を、眼鏡の向こうでぐるぐる剥いた。先刻高麗川を指して入間川と言ったときにはさほど気にしなかったが、この土地の物知りが、入間川について二度もわ褄の合わぬことを言ったのが、さすがに気になったのだ。大体なぜ、入間川なのだ。ここは高麗川で、俺たちの向かっているのは高麗神社だ。
むっつり黙って、数歩大股に歩くうちに、
「ははあ」
安吾はにまりとした会心の笑みを漏らした。
「お前さんは、『入間様』で話しているのだね」
「何だい、入間様とは」
ぎょっとして訊き返したのは、檀君だった。記者君は、仏のごとくに曖昧なアルカイックスマイルを浮かべている。
坂口安吾は、狂言や謡曲を、読み物としてよく愛好した作家だった。中世の演劇の、大胆でいて本質を突くような作劇法(ドラマツルギー)に魅了されたのだろう。小説であれ評論であれ、気まぐれな随筆であれ、彼の文にはよく、狂言や謡曲に描かれたモチーフが登場する。
そんな安吾だったから、狂言の「入間川」のことも勿論知っていた。古来「逆さ言葉」のことを「入間様」とか「入間口」、或いは「入間言葉」と呼ぶ。つまりはとにかく入間の物言いだというわけで、どうやら入間川が由来らしいのだが、なぜそんな風に呼んだのか、定かな理由はわからない。だがとにかく、狂言の「入間川」は、武蔵国の入間川を舞台にして、登場人物たちが逆さ言葉を使って遊び、お互いを混乱させながら、相手を出し抜き出し抜かれる笑話である。
「入間川で『深いからここを渡るな』と言われたら、『浅いからここを渡れ』という意味、『この刀をお前にやらない』と言われれば『貴重でないものをいただかず、ありがたくなく存じます』と、万事その調子さ」
「へえ、なるほどね」
感心する檀君からくるりと顔を向け、安吾は言った。
「さだめしお前さんも、入間川と言えば高麗川、謡曲と言えば狂言、そんなあべこべ言葉を用いているのだろう」
記者君は、そんな安吾先生の推理に、ご明察、とは答えなかった。その代わりに、相変わらず屈託というもののない、優しく明るく、けれどやはりどこか曖昧模糊とした笑みを浮かべ、狂言の一節を、歌うように唱えた。
「入間言葉をさらりとやめて、真実を仰れと言われれば、真実は何かござろう」
彼の笑みのわりには、それは軽口や他愛ないおふざけのようには響かなかった。
狂言の最後で、「入間言葉を止めて、本当の気持ちを言え」と詰め寄られたその土地の人は、「嬉しい」という本心を白状させられる。だが、今度はその無理に言わされた本心の言葉尻をとらえられ、「ということは、嬉しくないのだな」と、折角もらったはずの品々を取り上げられてしまう。入間の野では、言葉と本心はいつもかみ合わない。本心を言ったと思っても裏返されてしまい、真実には決してたどり着けないのだ。
「謡曲は、確かにあったのです。現在では、もう失われてしまったようですが」
「そうかね、どんな話か、少しは知っているのかい」
「修羅物だとか」
ユーレイが主役の能を夢幻能といい、中でも武士が主役のものを、修羅物という。彼の穏やかな口調と「修羅」という言葉の響きとがあまりに不似合いで、それも入間口かと、安吾は疑った。
「修羅物なら、主役(シテ)は平家の公達か何かかい」
横から檀君が訊く。
「いえ、源氏の某(なにがし)と聞いています」
「木曽義仲の息子、清水冠者義高は、入間川沿いで誅殺されたはずだよ」
「確かに、そのようなこともありましたか」
檀君は熱心に、思い当たる源氏の武士の名を挙げた。入間川―今でいう狭山市のあたり―は鎌倉と上越をつなげる要所ゆえ、中世武士との関わりも多い土地であったらしい。この高麗も、広義では入間一帯に含まれる。
「入間川と、呼ばれた武士がいると聞きます。川の流れの如く、心のねじ曲がった、気持ちの定まらぬ男であった由です。そんな男をシテに据えたつまらぬ曲であったゆえ、目を惹くところもなく、すぐに廃れてしまったのでしょう」
話しているうちに、ようやく車道に出て、神社の鳥居の見える場所まで来た。
「ようやっと、着いたね」
安吾と檀君を神社に送り届けて、記者君は一旦、お役御免となった。
「当社の記者が、ほかにも何人か来ているはずです。油を売ってと叱られてはいけませんから、上司に挨拶してくるようにいたします。ではまた後ほど、お目にかかります」
人の賑わいは、予想したほどではなかったが、それでも前日よりはずっと、人の行き来が多い。記者君はその中に消えて行き、安吾たちも、中野君と高岩君と、落ち合わなければならなかった。
「坂口先生」
獅子舞奉納を無事に見終わって、社務所の一角を借りてお弁当を開いていると、後ろから声をかけてきた人がいた。
その人は、昨日安吾たちに社と一族の歴史を詳しく聞かせてくれた、例の神官氏だった。一人、安吾より相当年上に見える、小柄であか抜けない風采の人物を横に連れていた。
「こちらが埼玉新聞社の、境さんです」
「ああ、埼玉新聞の。物知りの記者君の、上司の方ですな」
境というその記者は、怪訝そうに眉をひそめたが、もとから困ったような顔をしているので、そんなに表情は変わらない。
「いえ…こちらがその、物知りの記者さんの、境さんです」
神官氏が気まずそうに、言い直した。
「今朝、駅で待っていらしたそうなのですが、生憎先生方と、行き違ってしまったようで」
「ああ、そうでしたか。おたくの若い記者君がお迎えに来てくれていたもので、あなたを待たずに張り切って河原の方に歩いて行ってしまったのです、申し訳ない。しかし彼も若いのに色々知っていてね、だからてっきり、あの記者君が、噂の物知りハカセなのだと思いこんでいましたよ」
安吾が愛想よく語る側で、神官氏と境氏と、困ったように顔を見合わせている。
「先生、あの記者とは、どの記者でしょうか」
「ヒナには珍しい、えらくハンサムで堂々たる、役者のような男だよ」
「さて、当社には、絶えてそんなハンサムはおりませんねえ」
「なんだって」
安吾は大げさに振り返って檀君の顔を見た。檀君は肩をすくめて、
「いや、大変ハンサムな謡曲のハカセだった。俺も確かに見ましたよ」
その記者君が、やぶれかぶれの無頼作家の見た白昼夢ではないことを保証した。とはいえ、檀君も白昼夢から五十歩百歩の頼りなさではある。
「あらかた、先生方のファンか何かかもしれませんね。お近づきになるために、話を合わせたのでしょう」
事を荒立てるまでもない。横から神官氏が、神の目で鋭く見抜いてそう言った。
「なるほど、そう言われればそうですかね。随分見事な青年でしたがね。『入間川』という謡曲を探していましたよ」
「『入間川』は狂言でしょう」
「それは俺も知っていますよ。だが、『入間川』と呼ばれた源氏がシテの、失われた謡曲があるのだそうです」
そこまで口にしてから、今自分が、ホンモノの物知り博士の目の前にいることを、安吾は思い出した。
「アナタは知っていますか、『入間川』という武士を。心がひん曲がった、嫌な男だったということですよ」
境記者は、ふむ、という顔で白髪まじりの顎髭をなでつけ寸時考えたものの、その後は大して勿体つけずにすんなり答えた。
「そうですね、確かにいます。入間川に長く陣を張り、『入間川殿』と呼ばれた武士が。ですが、心がひん曲がったというのは、聞いたことがありませんね。聡明で心根素直な、人柄優れた武士であったはずですよ」
「あいつめ、また、入間口だ」
苛々とした叫びを安吾が上げる横で、檀君が訊いた。
「何という人物ですか」
「足利基氏と、いう人ですよ」
「へえ、足利の。タカウジではなくて、モトウジ?」
「はい。モトウジは、タカウジの息子です」
檀君と境記者が話す横で、安吾の顔色は、みるみる白くなっていった。
「なんてことだ…」
だが別に、境記者の口から発せられた、その武士の名が問題だったわけではない。それを聞くより先に、安吾はある重大な事実に思い当たったのである。
「謡曲だ、これが、謡曲の『入間川』なんだ」
獅子舞奉納が終わり、さっと人が引き閑散とした神社に、薄闇が訪れたころ。
その薄暮の中に、一人たたずむ、直垂(ひたたれ)姿の武士がいた。濃紺の地に、金の刺?が映える美しい絹を身にまとい、かれは笙を吹いている。先ほどまで境内に満ちていた笛の音とはまた異なる、やや緊張感を帯びた華やかな寂しさが、神域に満ちていた。
「お前さんが、足利基氏、ではないのだね」
安吾が声をかけると、武士は笙を止め、声の主に視線をうつしてニコリと笑った。また、翳りのない笑顔である。能のシテのように面をつけてこそいないが、彼の空っぽの笑顔は、それ自体が面のようでもある。
「いかにも、そのような者ではございません」
静かに、武者は答えた。紛れもなく、先刻までの記者君である。
(…思った通りだ)
作により多少の差異はあるものの、所謂夢幻能と呼ばれる謡曲群は、大抵その構造を一つにしている。まず話の廻し手である脇役(ワキ)が登場し、実は幽霊でありながら真の姿を隠した主役(シテ)と出会い、会話する。何か心惹かれるままその仮の姿のシテと別れると、今度はアイと呼ばれる、物語のつなぎ役の人物が現れる。アイはシテにまつわる歴史をつまびらかにし、ワキが出会った人物の正体をほのめかす。そしていよいよ最終幕で、ワキは真の姿を顕わしたシテと対面することになる。
それに照らし合わせると、安吾と檀君はワキとワキツレ、境氏がアイ、仮の姿の前シテが記者君で、真の姿の後シテが基氏ということになり、全てが綺麗に説明できる。つまり記者君は、「入間川」という謡曲を探していると言いながら、実は、その彼自身の曲の中に、一行を引き込んでいたというわけだ。
だから、言ってみれば目の前の武者はユーレイ以外の何者でもないわけだが、安吾には恐怖の気持ちは全くなかった。むしろ、作家としての好奇心や、謡曲の真髄に触れる興奮の方が、強い。
現在舞台の上で演じられる能という伝統芸能は、美しいものではあるかもしれないが、いかにも貴族趣味で眠たく、心を揺さぶられないと、安吾は思っていた。形骸化して型と作法ばかりになった伝統的権威から、その創世のころ、観阿弥や世阿弥や、それより前の何阿弥とも知れなかった奴が自由に舞った原初的な感興を探すのは、鎧の上から愛する者の体をまさぐろうとするようなものだ。ゴツゴツもどかしいばかりで、何も楽しくない。
謡曲の美しさや面白さというのは、何もないところから不意に風が巻き起こって砂が壮大なマボロシの形を見せ、やがてそのまま風の前に掻き消えていくような呆気なさにある。残されてぽっかりと心に穴の開くような、あの儚さ。あれは、現代の能には残っていない。
しかし、古来、世阿弥や某阿弥は、おそらくその、書かれた謡曲の美しさのままに、或いはそれ以上の美を体現して、舞うことができたのであろう。なぜなら能とは本来、切実な鎮魂の儀式でもあったはずだから。妄念に迷って成仏できない霊を慰めるという、彼らの時代における真実痛切なはたらきがあったから、能は彼らの生活に即して面白く、美しかったのだ。琵琶法師が平家物語を語って平家の魂を鎮めたように、世阿弥はソトバ小町なら小町の魂を自身に移して、舞ったにちがいない。小町の砂のマボロシになって生きて、狂って、舞って、跡形もなく消え去る。舞台上でそれができなければ小町の魂は鎮まらないし、その舞を見たものも熱狂しはすまい。
いま。目の前のこの男が何者であるとしても、この男の物語は語られなければならない。男の魂は語られることではじめて形を持ち、舞うことにより慰められ、浄化され、そしてさいご、忽然と姿を消すのだ。それが謡曲流の供養というものだ。だから自分はワキとして、シテに語らしめなければならない。
「お前さんの話を、聞かせてはくれないだろうね」
「そうですね。私の口に上るのは、すべて嘘ばかりで、真実など一つもお話しすることはできません」
足利基氏は、父尊氏が諸国の武士に号令する将軍となってから、京都に生まれた。
そういう意味では、生まれながらの貴人であったと言ってよい。もともと足利家は鎌倉の御家人であった頃から、その源氏の正統に連なる血筋の上でも、都とのつながりの上でも、他の武家とは一線を画す家格の高さを有していた。
だが、この高貴の人の人生は、必ずしも順風満帆なものではなかった。彼の生まれたのは、帝が二人いる国の乱れが六十年も続いた、南北朝時代のさなかである。彼の人生のどの時点でも、国に戦が無いことはなかった。
幼いころは、尊氏の弟、つまりは彼の叔父である直義(ただよし)のもとで、養育されていた。直義には長らく実子がなかったため、何人かそのようにして、尊氏の子を育てている。叔父というべきか、養父(ちち)というべきか、基氏はその、どこか清廉で折り目正しい佇まいの人が、好きだった。その人と都の屋敷で暮らしたのは、幼い頃のほんの数年だけであったとはいえ、基氏の心に残る、はじめての父親らしき人は、直義である。
基氏には、十歳はなれた、同腹の兄がいた。尊氏のあとを継ぎ将軍となる、義詮である。兄は諸国安定からは程遠い室町幕府の草創期にあって、関東一帯を治めるために、鎌倉に住み続けていた。基氏が京都で生まれたときも、兄は鎌倉にいた。だから、兄とはずっと、会ったことがなかった。
やがて、鎌倉にいた兄は都に呼び戻され、代わりにこんどは基氏が鎌倉の首となるべく東国に下向することとなった。生涯でたった一度きり、十日にも満たない間、基氏は鎌倉で兄と過ごした。数えで十歳だった基氏と比べ、二十歳の兄は、立派な大人だ。そのせいもあってか近寄りがたく、また口数も少ない兄は、ほとんど基氏を相手に語らなかった。
「此度(こたび)の事は、大儀であるな」
いちおう、そう言って基氏を労った兄は、父尊氏によく似ていた。いっぽう基氏は、祖母と、祖母によく似た叔父の面影が強いと、小さい頃から周囲の者に言われていた。
尊氏、あるいは尊氏側近である高師直(こうのもろなお)と、直義の確執が深まっている。それこそが、このとき義詮が都に呼び戻され、代わりに基氏が鎌倉に下された理由だった。都の直義は引退を強いられ、政務を義詮に譲ることを求められている。つまり、父はかつて実権のほとんどを任せていた叔父を、今は政治の中枢から退けようとしていたのだった。
その都の情勢について、自らの考えを詳しく口にすることは、兄はしなかった。幼い基氏にはわかるまいと思ったのかもしれない。
「諸事、播磨守と民部に任せればよい」
兄は、それだけ言った。都の政治が二つに割れたのと対応して、鎌倉の執務をつかさどる高播磨守師冬(こうのはりまのかみもろふゆ)と上杉民部大輔憲顕(うえすぎみんぶのたいふのりあき)の二人も、それぞれ師直方と直義方として、緊張を孕みながら拮抗している。しかし、何に気をつけろとも、どちらの方をより大事にしろとも、兄はそんなことは何も言わなかった。まもなく兄は、上洛した。
「左武衛殿に、よう似ておられる」
基氏を見て、上杉憲顕は目を潤ませた。左武衛というのは、直義のことだ。この稚(いとけな)い主に、憲顕は傅(かしず)いた。四十なかば近い年のころはちょうど、尊氏や直義と同じぐらいである。勇壮無二のひとだと直義から伝え聞いていたので武骨な武士を思い描いていたが、この人も、もとは都の貴族のはしくれであった上杉家の伝える、端正な面立ちの持ち主だった。基氏の祖母、尊氏・直義の母である上杉清子は、憲顕の父の妹にあたる。つまり憲顕と尊氏・直義は従兄弟であり、特に直義は、長年この人と固く交誼を結んでいる。
それから数年、今度は憲顕が、基氏には父がわりとなる。憲顕の後見のもと、安心して暮らしていられる時間は、しかし、長くはなかった。京の直義は権力をめぐる争いから身を引かず、尊氏・師直と、師直を下したあとは尊氏・義詮と、決裂した。もつれては覆る戦の形勢にまつわる報は、都度鎌倉を揺るがした。幼い基氏も、師冬と憲顕の激しい攻防はじめ、戦局に翻弄されることになる。
師冬は、師直が失脚するのに伴い、命を落とした。自然彼の立場は憲顕と直義の側に近いものになったが、無力な彼は、そんな激しい権力争いの潮流に、ただ身を任せるのみ。だが、やがて来た、尊氏と直義の直接の対決。それに直義が敗れ降ったとき、彼は、物言わぬ飾りの貴人のままではいられなかった。直義が処遇を案じられながら鎌倉に入るのと入れ違うように、基氏は安房に出奔した。
この冷静で英明な貴人が、そんな感情だけに突き動かされたような行動をとったことは、後にも先にも、そのときしかない。いくら幼い心でも、まさか自分が行方をくらましたら、父と叔父が、仲良く手を取りながら迎えに来てくれると、思ったわけではない。自分がいなくなることで、叔父の命を助けられるとさえ思わなかった。だが、ただ、耐えられなかったのだ。父が叔父の命に対して下す決断を、その目で見ることに。
基氏のその行動は、事態を何も変えなかった。直義は降人として、表面上は静かに鎌倉に迎えられたし、基氏も呆気なく引き戻された。尊氏もそのまま鎌倉に留まり、奇しくもそれは、尊氏と直義、尊氏と基氏、直義と基氏が互いに近くで過ごす、最後の時間となる。
「誠に麗しく、ご立派なお姿ですね」
相変わらず折り目正しく、直義は基氏の前に端座していた。その日は二月二十五日、尊氏が整えてくれた基氏の元服の日で、それまではずっと光王(こうおう)と呼ばれていた童形の公方が、その夜はじめて基氏になった。数えで十三の年である。元服の儀を見届けて、初々しく結われた髷(もとどり)に烏帽子をかぶった姿の基氏に、二人きりでの暫時の接見を、直義が請うた。
「忝(かたじけの)うございます」
ほかに何と言ってよいか、わからなかった。直義は過日の義詮上京の折から既に僧形になっており、慧源(えげん)と名乗っている。もともと欲心や世俗臭のようなものは薄い人であったが、今はその法体のゆえか、自身の命運への諦めゆえか、人の精気らしきものがほとんど感じられない、薄っすらと力ない面影になってしまった。質素なか細い灯りに照らされて、墨染の衣と同じほど濃い夜の闇のような瞳が、深く透き通っている。
「元服のお祝いに、慧源からも何かを差し上げとうございますが、ご存じの通り、今は何も持たぬ身になってしまいました」
「お心遣いを、有難く頂戴いたします」
「いえ、お心の荷となってはいけませぬゆえ、差し上げることはいたしませぬ。その代わりに、一つ、要らぬものを、慧源がお引き受けいたしましょう」
基氏は戸惑った。要らぬものを引き受けてもらうと言っても、まさかこの叔父に、用を為さなくなったがらくたを押しつけるわけにはいくまい。それにこの人は、きっと、目に見えるものの話をしてはいないのだ、と、基氏は直感した。
「では、私の心の、醜い嫉(そね)みを引き受けてくださいますか」
基氏が思いつくままに言うと、直義はその若武者の勘の良さに感心したように、ごくわずかに目を細めた。
「昔から変わらず、大変に利発な方ですね。ですが、あなた様のお心にもともとないものは、お引き受けはできませぬ」
それもほんの一瞬で、すぐにそう言って、かわす。元来この叔父は、信仰に篤く、禅僧との交わりも深く、仏道の学識も高い人であったが、今は落ちぶれた武士というよりも、高邁な僧の趣きである。
「私に要らぬものとは、何ですか」
「そうですね、これから先のあなた様にとって、きっと障碍(しょうげ)となるもの…ほら、ここに」
言うなり「とん」と、ごく軽く、直義は基氏のみぞおちを指で押した。
「これでいい」
そんな他愛ないまじないのような動作に何の意味もあるはずはないのに、基氏はどこか、胸のつかえの取れたような、気持ちの軽くなったような気がした。
「何を、お引き受けくださったのですか」
「『まごころ』です」
けろりと答える直義に、基氏は、焦って表情を険しくした。
「私に、真心のない者に成れと、仰せですか」
「少なくとも、お父上が私めを害されるのをご覧(ろう)じる辛さから安房に逃げ出す、さような弱き真心など、要りませぬ」
直義は基氏の抗議をきっぱりとはねのける。
「お父上も宰相中将殿も、そうあらねばならぬ時は冷たくお心を閉ざすことができる方です。あなた様のお心はそれに比べ、余りに柔らかで素直でお優しく、そこを突かれたら、ひとたまりもない」
「なれど、真心のない者になど、人はついて行きません」
それでも怯まず言い返す実直な若者を、直義は眩しく眺めた。この人との親子の縁が変わることなく保たれていたなら、どれだけ良かったろう。直義には晩年一子が誕生し、それが権力を巡る彼の動向を左右したとも言われている。その子はしかし、幼いまま死んだ。
「あまりにまっ直ぐなお心は、正しさでもって人をやたらに導いて、ついには殺しかねません。偽りは、二度重ねれば真になります。これからのあなた様には、それぐらいでちょうど良いでしょう」
「偽りに偽りを重ねて、真にせよと」
基氏は思わず不安そうに直義を仰いだが、特に表情らしいものは見て取れなかった。目の前の叔父は謹厳実直で鳴らした人で、気軽な嘘も良しとはしない人だったはずだ。それが今、自分に向かっては、そんな俄かには信じられないことを言う。
「いずれにせよ、慧源が已(すで)に、あなた様の真心を頂戴しました。もうこれからは、その優なるお心のゆえに、いたずらに迷われることはありません」
それが、骨肉の争いを経たあとに、叔父が辿り着いたひとつの答えなのだろうか。
「叔父上は、どこかで真心をお捨てになったのですか。それとも、自らは決して真心をお捨てにならなかったゆえに、斯くの如き身の上になったとお考えですか」
聞くべきでないことを、尋ねてしまった。一瞬でそう悔いたが、直義は笑って答えた。
「この慧源めは、あなた様のようなお優しい真心は、生まれてこのかた持ち合わせたことがございませぬ。今それをもらいうけて、はじめて心の芯の温まる気がいたします」
うそだと叫びたかったが、あまりにその笑顔が恬淡として隙も裏もないので、何も言えなくなってしまった。
そんな会話を基氏と交わして、直義は退出した。そしてその翌朝、彼の滞在する大休寺で、死骸(むくろ)として見つけられた。服毒したらしい。毒は自分で手に入れたものか、父に渡されたものか、基氏はしらない。だがいずれにせよ、直義がその日をそのときと、自分でさだめて飲んだのだろう。
その日、基氏の真心は、直義とともに死んでしまった、らしい。無論そんな世迷言(よまいごと)を信じなくても良かったが、叔父の最後の親切―おそらく親切だったのだろう―は、確かに基氏の心を助けてくれたのかもしれない。基氏は、叔父の死に接して、耐え難いほどの断腸の思いは感じなかった。悲しさはただ、茫漠とした野辺のごとき寒々しさだった。
修羅の猛々しい心がそうさせるのか、或いは、権力争いの避けがたく醜い面が、たまたま身内に現れたのか、それはわからないが。義朝と義賢、頼朝と義経・範頼など、源氏の兄弟の相克の例は多い。尊氏と直義は同じ母に生まれ、育ちを共にして、幾つもの戦を協力して闘い、互いを思いやる情も浅くはなかったはずだが、それでも晩年は争い、争いの果てに直義は命を落とした。
基氏と義詮は、同腹とはいえ、十日たらず同じ鎌倉で顔を見合った程度の仲だ。互いに対して、尊氏と直義の関係とは比ぶまでもなく、頼朝と義経に勝るほどの愛着すらも、恐らくありはしない。
「左馬殿はどうか、くれぐれも宰相中将殿と、仲良う助け合われよ」
だが、自らは弟の直義と道を違えた尊氏は、義詮との仲について、その後も何度となく基氏に言い含めた。
弟を失った父の嘆きようは浅くなかった。直義の若い頃に似ているという基氏を見ては悲嘆にくれた。父は泣くときは本気で泣く。自分と弟が争った歴史など無いかのように、愛する弟を、自分ではない、天の抗えない力に殺されたとでも言うかのように、泣いた。父には父の見た真実がある。基氏にはそれがどのようなものか、わからない。ただ彼は、叔父のことをそうは思わなかったように、父のことを悪人だとも怖いとも思わなかった。
ともあれ。直義の死に際し、激しく悲しみ、また怒ったのは、基氏のもう一人の父がわり、上杉憲顕だった。憲顕は尊氏を敵と定め、幕府と敵対する南朝の軍に加わり、それが関東の乱れに拍車をかけた。伯仲する勢力、入り乱れる敵と味方、その状況が、基氏を関東の要所である入間川の陣に向かわせた。
東国の体制をととのえ、次は義詮を助けるために都へ戻るというとき、入間川の陣のほかに、父は幾つかのことを基氏のために設(しつら)え、残して行った。それにより、彼には憲顕に代わって、畠山国清という執事がつけられた。畠山家は足利の諸流で、国清はひところ直義と尊氏の間を上手に行き来するうち、尊氏に重用されるようになった男である。父は、国清の妹と基氏の間に婚儀も整えてから都へ去り、つまり基氏は、人並みに彼の家族を得ることになる。なお、父にはそのときの別れ以来、二度と見(まみ)えることはなかった。
その陣屋敷には、川向うに南朝の勢力の気配を常に感じながら、結局足掛け七年も暮らすことになった。彼がその地に滞在した間、周囲の者は彼を「入間川殿」と呼んだ。本来なら東国武士の統率者として「鎌倉殿」と呼ばれるべきが、居場所に応じて入間川に名を変えたというわけだった。
朝に夕に目にする入間川の流れのうねりは、彼の心をそのまま映すようであった。それは彼が数えで十四から二十までのまだ若い心だったが、もう誰に乱されつけこまれる未熟さも弱さも、その内にはなかった。
彼は入間の陣で、よく笙を習い、吹いた。戦の前日にも鍛錬を欠かさず、吹いた。口運びの練習のためか、音を鳴らさずに吹くことも、多かったという。源義家に秘曲が伝えられて以来、笙は源氏に相伝の楽器である。だが、親子がようやく一緒に過ごした短くも濃密な時間に尊氏から直に伝えられた笙は、基氏にとって、源氏の権威云々よりも、実の父との縁(えにし)を繋ぐよすがであっただろう。
「私は、詩歌管弦は何事も楽しみましたが、田楽だけは好みませんでした」
そのうつくしい顔(かんばせ)をもはや半分以上闇に沈ませて、基氏は安吾に語った。
「父も兄も田楽を楽しみましたが、叔父上は政務に障るとしてこれを退けた、それに倣ったのです」
もともと、鎌倉幕府の滅亡の一因は、執権の北条高時が田楽能に耽ったことだと考えられていた。真面目な直義は、それに拠り自らを戒めたのだろう。だが、やがて田楽と猿楽のうち、特に猿楽は、時代に愛され、為政者に相応しい洗練された趣味とみなされるようになって行く。足利将軍家の三代目の義満は、言わずとしれた世阿弥の庇護者である。
「そんな男の謡曲とは、皮肉だね」
「まことに。私は田楽を見たこともなく、拍子のひとつも踏めはしないというのに」
言うなり基氏は、とんとんと華麗な所作で足踏みをすると、くるりくるりと、軽快に体を翻した。彼の入間様に、安吾はまた口をへの字にした。逆さ言葉を「入間口」と呼ぶことの確かな由来は分からぬらしいが、案外この、心に合わぬ物言いをする入間川殿こそが、出どころなのかもしれない。
横で見る安吾には構わず、扇の代わりに笙を持ったまま、基氏は自ら朗々とうたい、舞う。のびのびとした体が、自在に動く。
「好むと申せば好まず、好まずと申せば好む」
戦にあたれば勇猛で、周囲に対しては公正で、判断も的確、さらに笙を愛し、和歌をよくし、禅を理解し、田楽を退けたという基氏を、周囲の者は鎌倉を治めるにふさわしい源氏の名君と称賛した。南朝の将、新田義貞の子義興を騙し討ちで討ち取った畠山国清が、やがて周囲の武士たちと軋轢を深めていくと、基氏は皆の求めに応じて、義兄である国清を粛清する。人々は基氏の決断を天晴と讃え、国清はかつて義興を卑怯な真似で殺した罪の、報いを受けたのだと評した。
「謀ると申せば謀らず、謀らずと申せば謀る」
東国に離れて住む智徳・武略に優れた弟を、義詮は緊張を多分に含んだ信頼で遇した。その緊張は、基氏に、「兄弟相譲り、死すとも変わらじ」との旨を誓わせ、起請文を書かせすらしたらしい。義詮はそれを受けてようやく弟の恭順を信じる気になれたのかもしれない。だが、自分に絶えぬ疑心を抱く兄のことを、基氏は心中どう思っていたのか。
「偽りを偽れば、そは真ならずや」
ある者は、基氏と義詮の仲は、円満であったと言う。またある者は、義詮には猜疑と嫉妬があったが、基氏の篤実さがそれを制したと言う。二人が短命でなかったら、どうなったか知れないと言う者もいる。あるいは、基氏が義詮に狙われる心労で命を縮めたという者、義詮の疑いを晴らすために自害をしたと言う者さえも。真相はもう、わからない。
「わが心は、武蔵国(むさしのくに)の入間川、下ると見れば逆上るかな。真実は何かあらん、真実はいずくにやあらん」
衝動に揺り上げられて激しく踊ることを、「狂う」と言うが、基氏は自身の懊悩のまま、狂い舞った。そうだ、能とはそういうもののはずだった。安吾は、目前に繰り広げられる、真情の湧き出るままに形を結んだ粗削りな芸術の原型に、心を打たれていた。まったく、なんという清純な心か。若者の舞や謡のどこにも、曲がったところはない。父や兄、叔父や側近を素直に想う気持ちと、乱世を生き抜くための狡猾で冷酷な権謀術数と。賢いゆえに使い分け、使い分けたゆえに、抑え込んだ自分の気持ちを、やがて見失ったのだろう。その苦しさで、この霊は、悩み、迷い、狂うのだ。心行くまで舞い切った先にしか、その苦しさへの救いはない。謡曲の中には、僧が出てきて経を読んだりするような、表層的な救いも描かれる。だがもちろん、語りと舞いこそが、より深い層での魂の救済となる。
「溢るる想いは堰を破り、涙の河は乾くかたなし。血で血を塗り、偽りに偽りを重ぬる罪障のゆえに中有を迷う身をさえも、摩訶般若波羅蜜多経は、遍(あまね)く照らし、導き給う」
やがて激しい「急」の舞を過ぎ、静かな呼吸に、基氏は戻った。
「有難き御法(みのり)も、足利の縁(ゆかり)と思えば、なお懐かしい。その懐かしさに惹かれ迷い出でて、真も無き妄言を語り、辜(つみ)をいたずらに増やし申したが、これにて退散いたしましょう」
憑き物のハタリと落ちたような、清々しい顔をしている。舞のあとも息が乱れないのは、この人に肉体が無いからではなく、彼の呼吸が笙で鍛えられているからかもしれない。
「お見事でなくもなくもない舞であったよ、ありがとう」
「どうかこのつまらぬ謡(うたい)のことを、先生の筆で、必ずお残しください」
「そのために俺を選んで現れたのだろう。書いて供養にすると、確かに約束するよ」
「忝(かたじけの)うございます」
そして一陣、冷たい風が吹くと、今まで見たものは、ただ幻のように消えてしまっていた。いつまでも耳に残るようだった笙の音さえ、余韻もない。
「安吾さん」
夕闇に一人、呆然と立ちつくす安吾を見て、檀君が心配そうに、後ろから声をかけた。
「もう暗い、帰りましょうや」
彼は何も見なかったのか、いや、自分すら何か見たのか、定かではない。
「太宰も、あの男に会ったのかな」
そこを発つ頃には、安吾はやや憔悴した表情で何事かを一人ごち、周囲を心配させた。
それから少しして、誌上で「安吾の新日本地理」の「高麗神社の笛の音―武蔵野の巻―」を目にしたとき、檀君の胸には、何かざわりと騒ぐものがあった。だがどうも、それが何なのか、思い出せない。そこには高麗神社を訪れた秋の奇妙なピクニックの日のことが余さず書かれてあり、高麗氏の系図についても渡来人の歴史についても笛のお囃子についても、微に入り細に入った分析はあれ、書き漏らしなど何もない。強いて言うなら、作中の無駄な繰り返しが目についたが、大量の酒や睡眠薬で心身をごまかしながら原稿を書き殴っていたその当時の人気作家には、珍しいことだとは言えなかった。
「安吾さんも、俺も、たいがい疲れているんだな」
かたや安吾は、檀君よりは明確に、忌々しい気持ちを抱えていた。新日本地理の武蔵野編を書くにあたって、かならず書かなければいけなかったはずのこと、それにどうしても、たどり着けない。微かな記憶を掘り起こそうとするほど、高麗神社の歴史を、堂々巡りで書いてしまう。
頭に響いてくるのは、「先生の筆で、必ずお残しください」という、やけに爽やかな、何者かの声のみである。
「あいつめ、最後まで入間様を使ったとみえる。本当に嫌なやつだ」
そう言って安吾先生が顔をしかめるのを、何人かの人が見たという。今も力強い言葉で人々を魅惑するこの稀代の人気作家は、晩年は精神のバランスを崩すことが多かったが、これもちょうど、そのころのことである。
そういうわけで、入間の野に消えた謡曲のことは、今も誰もしらない。
詩部門正賞
おめかし
新沢まや(34)=あらさわ・まや=横浜市保土ヶ谷区
ひしゃげたソファに
もたれかかり
ナンセンスな
インタビューを
つまみに
談笑する
素顔の
あなた わたし
たまの日の
いさかいには
沈黙し
けずられていく
武甲山をみる
それから
互いの癖を
許しあいたい
ふたり
許すことは
夫婦のおめかしですから
仕立てのよいものを
身の丈に合うものを
ひとつずつ
短歌部門準賞
しののめの空
森暁香(78)=もり・さとか= 幸手市
いくたびもマスク抓みて引きあげる牛乳宅配勧むる青年
網戸より時々夏の風が入り風はときどき百合の香を入る
往来の車に触れんばかりなるあぢさゐ即刻首から折られ
〝海の家〟と大喜びにて入り出です三人の孫に吊れる青蚊帳
いま声を引つ張りあげてゐるんだと電話口にて高熱の子は
色彩が叫んでゐるとはこんな空しののめ一気に焼けてくるなり
Pacerに刻む歩数がいつよりかおのれ縛りて朝夕励む
木の枝に吊るさるる傘落とし主拾ひぬしとに捨てられし傘
すかんぽの鯖いろ並ぶ川向かう雨籠らせて灯る図書館
冷えやすきされど居心地よき図書館カズオ・イシグロけふは借りたり
黄いろくてぷつくり太つたホームランメロンといふが昔美味かり
さかさまに砂落ちゆけば三分の時間たちまち塊なせり
さう言へばSNSの無き時代 こころでものを考へてゐた
ストーブを蔵はぬうちに扇風機老いのたつきは連綿として
認知症テストが満点マンテンの響きよきかなこの齢(よはひ)にも
手持ちの語では足らざると言ひたきか手振り加へて老人語る
どたばたもじたばたもせぬ齢などあらう筈なし あたふたと今日
沸騰湯に十五秒すぐこほり水桃を?く技 ひと見抜くワザ
時置けばじんわり 短歌(うた)も田舎煮も容易ならざる人との間(あひ)も
脇目ふらず茅花(つばな)の原を走る雉子悪くないなあ鳥になるのも
俳句部門正賞
鏡の国
渡邊輝夫(59)=わたなべ・てるお=栃木県栃木市
お涅槃や空しんかんと水鏡
雛の間の気配を映す鏡かな
サイネリア鏡の中の人見知り
春うれひ常の鏡につねの貌
育休の隙間をひかる梅雨鏡
鏡中に翼を得たり衣更
香水の私語が鏡をさまよへり
短夜のわたしが獣めく鏡
風鈴の音色鏡と響きあふ
鏡屋に鏡あふれて日の盛り
花を選る鏡の中の夏帽子
鏡中を日差しの移る午睡かな
秋灯やナース行き交ふ夜の鏡
蒼ざめてゐる月光の捨て鏡
湯ざめして鏡の国にゐるおもひ
不機嫌な日差しの転ぶ冬鏡
秩父夜祭万の灯に濡れ水鏡
冬銀河鏡中とほきものばかり
底冷や鏡の奥で鳴る電話