2022年正賞・準賞発表

埼玉文学賞とは

埼玉新聞社創刊25周年を記念して1969年に制定した「埼玉文学賞」は文学を志す人たちを長年にわたり支援してきました。今年で53回。毎年幅広い年代から作品を集め、県内外から注目される文学コンクールです。小説、詩、短歌、俳句の4部門。埼玉りそな銀行から特別協賛をいただいております。

第53回埼玉文学賞審査員

小説部門 須賀しのぶ 新津きよみ 三田完
詩部門 木坂涼 北畑光男 中原道夫
短歌部門 沖ななも 金子貞雄 内藤明
俳句部門 鎌倉佐弓 佐怒賀直美 山﨑十生

小説部門正賞

かまくら

小川公朗(64)=おがわ・きみお=飯能市

 首都圏の年末年始は観測史上、かってない大雪に見舞われるだろう、と各メディアは連日のように報道していたが、予報に違わず大みそかの未明から降り出した粉雪は、昼過ぎには五センチほどの積雪となり、陽が傾く頃にはボタン雪がその厚みを増し、街は白く曖昧な輪郭を残すだけとなった。
 省吾と靖子が夜の八時前、いつもなら徒歩十分もかからない近所のスーパーに出かけた頃は、省吾が舌打ちしたくなる程のもどかしい道のりとなった。歩みのさらに遅い靖子に合わせていた省吾は、ライトアップされたスーパーの看板が見えだすと、「ばあちゃん、先に行ってる」と雪道を蹴りだした。
 カートを押して小走りに店内に入ると、客の姿はまばらだった。省吾が向かった総菜コーナーはLEDライトが商品のない棚を煌々と照らしている。いつもなら閉店九時の三十分前頃から見切り品の総菜類に五割の値引きシールが貼られるはずなのだ。やがて到着した靖子と目が合うと、靖子は疲労の色濃く滲んだ苦笑いを浮かべ、
「おせちのセットでも買おうか?」と正月用食材の特設コーナーに視線を投げた。
「いいよ、ばあちゃん。帰ろ」省吾は首を振り、空のカートを所定の場所に戻そうと向きを変えた。
 祖母ひとり孫一人のつつましい小世帯、わずかばかりの年金とビルの清掃パートの収入だけでは普通の家庭のような年越しが望めないことくらい小学六年生の省吾にもわかっていた。おせちセットや数の子、栗きんとんといった正月用高級食材に手が出せるほど豊かな暮らし向きではない。閉店間際のスーパーで、値引品の寿司や弁当、総菜類を買うことくらいが、省吾の誕生日を含めて年に数えるくらいのささやかな贅沢なのだ。省吾が靖子の元に預けられて、四年目の正月を迎えようとしていたが、例年、大みそかの夜にも見切り品を買って年始を迎えるのが二人の楽しみだった。
 今日も省吾は、一〇時の開店と同時にこのスーパーに足を踏み入れた。ベートーベンの第九が流れる店内は暮れの買い出し客で賑わい、それぞれの買い物かごも商品が溢れんばかりだった。紅白模様をあしらったカラフルなポップ。眩いばかりの色とりどりの正月用食材。省吾は店内を歩き回るだけで満ち足りた気分だった。目当ての惣菜コーナーで、省吾は頭の中の欲しい物リストに手巻き寿司とチキン、ポテト、ソーセージのオードブルセットなどを書き込み、各値札の半額を暗算し合計した。そして、はじき出したおおよその予算に満足すると、あとはタイムセールまでそれらの商品が残っていてくれるようにと願い、店を後にしたのだ。
「八時にはすっからかんだったらしいな」
 男の重くひび割れた声が省吾の頭上におりてきた。二人が振り返ると、男が省吾の頭越しに総菜コーナーの棚を眺めている。靖子が省吾に、知ってる人? と問いたげに目だけで尋ねた。
「大みそかで、こんな雪だ。店も客の入りくらい読むわな。いつもより早めたらしい」誰に言うともなく男が恨めし気につぶやく。
 厚手の鼠色のジャンパーを着て緑色のニットの帽子を被っている。手袋もマフラーもしていたが、どれも着古され、くすんだ色を帯びていた。お世辞にも上等な服装とは言えない。日焼けした彫りの深い顔には額の深い皺と無精ひげが目立っていた。男のさげていたカゴにはもやしが二袋入っている。男は、鼻に皺を寄せて省吾に軽くうなずくと、そのままレジに向かっていった。
「ごめん。もっと早く家出りゃよかったね」靖子が省吾に手を合わせて眉をひそめた。
「仕方ないよ」省吾の視線が男の背中を追う。靖子が苦笑して省吾の肩に手を乗せた。

 

 新年は白い世界で覆われた。省吾は公営住宅の三階にある部屋の窓を開け、例年にない元旦の街の光景を眺め、鋭利な冷気を鼻孔に受け止めた。雪は止んでいたが、空は低く厚い雲で蓋をされているようだ。陽春のかけらも見えない。車の往来もある窓下の小さな通りも、轍の跡すらなく、積雪が鈍い色合いを帯びていた。輪郭のぼやけた空間に閉ざされたような静かな元日の朝。雪の結晶のささやきが耳に滲みこむような無音の世界。雪の匂い。省吾は身震いして窓を閉めた。
「こんな正月、ばあちゃんも知らんな」
 靖子が、雑煮椀、それに干し柿一個に煮豆を添えた小皿、それぞれ三人分を盆に乗せて居間に入ってきた。2Kの居間には毛足の擦り切れたカーペットの上に必要最低限の家具、調度品しかそろっていないが、生活の丁寧さがうかがえる。茶箪笥の上に、プラスチック容器入りの二段の鏡餅、そのとなりに靖子の亡き夫、省吾の祖父の写真と位牌が並んでいる。省吾が生まれる数年前に亡くなった祖父の遺影は若い。靖子は、その前に椀と小皿を供えると手を合わせ、「さてと、始めよっか」とこたつの前に正座した。
 省吾はリモコンでテレビのスイッチを入れ、チャンネルのボタンを順番に押し始めた。どこも似たような新春特番だ。お笑い芸人や局アナがMCとなって、ひな壇に並んだ、これもまた芸人と女性タレントたちのコメントを交えながら、各地と中継をむすんで日本の元日の朝を伝えている。省吾はテレビの音量を絞り、靖子に向き合って、こたつの前に膝を正した。
「あけましておめでとうございます」靖子が改まった調子で挨拶し、穏やかなまなざしを省吾に注ぐ。省吾がはにかんだ様子で、「おめでとう」と頭を下げる。
「はい、これ」
 省吾は、靖子がボールペンで「お年玉」と手書きした信用金庫の現金封筒を受け取った。おそらく千円札が一枚入っているのだろう。去年の正月も、その前もそうだったから。毎月決まった小遣いを貰っているわけでもない省吾は嬉しい反面、何か申し訳ない気もして、ありがとうと呟き、こたつの脇にお年玉袋をすべらせた。
 雑煮を啜る音が居間に響き、時折テレビの喧騒が一気に溢れ、静かな空気を揺るがす。省吾が干し柿の最後の一切れを口に入れ、ゆっくりと噛みながら、テレビに首を回した。
「干し柿、もっと食べる?」
靖子は立ち上がり、台所から一メートルほどの荒縄にくくられたままの八個の干し柿をぶら下げてきた。
「雑煮食べるからいい」
 省吾の言葉に靖子は、しかし、黙ったまま縄の縒(よ)り目をゆるめて干し柿をはずし省吾の小皿に載せた。
「熊本の田舎じゃねえ」靖子の表情が緩む。
「晩御飯のあと家族みんなで干し柿づくりをするんよ……村中でやるから、だからね、どこの家も軒下は橙色になって、歳が押し迫ってくるとそれが茜色に染まって……」
 省吾は去年の正月もこの話を聞いた。いや、一昨年も聞かされた記憶がある。商業高校を卒業して熊本から上京した靖子は、勤め先の繊維工場で知り合った祖父と結婚した。だが、一緒になって二年目の頃からその工場が傾き始め、二人は上司の伝手(つて)で埼玉県久喜市にあるパチンコ店で共働きをするようになった。今も住んでいる公営住宅に空きがあったのも二人の転職を後押しした。
 東京の上野駅からJRを利用すると五〇分程度で久喜に着く。関東平野の東に位置し、のどかな田園風景も残された街で、ここから東北地方へと鉄路も続く。庭に柿木がある昔ながらの民家も多く、靖子は知り合いの家から、毎年わずかばかりの渋柿をもらってきては、正月用の干し柿作りを楽しんでいるのだ。
 正月といっても、何か楽しいことがあるわけでもない。昨夜の見切り品にもありつけず、ささやかな贅沢にも今年は見放された。家にいてもゲーム機があるわけでもなく、テレビの正月特番を観てもつまらない。しかし、今年は大雪に見舞われた。いつにない、いや初めて経験する積雪の正月なのだ。省吾は、元日の朝食もそこそこに外へ飛び出していった。

 運送会社のあった跡地の一画に造成された公園が近所にある。カシの木やイチョウ、桜の樹々が街の雑踏を遮断するように公園を取り囲んでいる。ブランコ、鉄棒、ジャングルジムなどの遊戯具もひととおり設置されており、砂場やベンチもあった。木造スレート葺きの朽ちさびれた小さな建物が、取り壊されることなく清掃用具などを保管しておく物置として利用されている。その隣にブロック造りのトイレ、そして水飲み場。決して広い公園ではないが、キャッチボールやミニサッカー程度だったら十分なスペースを有し、小学校からの下校途中、子供たちが立ち寄るちょっとした遊び場になっていた。
 省吾は、深い雪道を選び、雪が雨靴の口からこぼれてくるのにもかまわず一歩一歩新たな足跡を刻んで公園にたどり着いた。物置の陰になって見えないが、子供の歓声が聞こえてきた。省吾は背中がざわつく予感を覚えながらも首だけのぞかせ、真っ白な雪面に二人の人影がくっきりと浮かんでいるのを認めた。やっぱり……同じ町内に住む同級生のタツヤとユウタだった。他の子供たちからも敬遠されている存在で、何かの拍子に自分たちより弱い子をつかまえては執拗なまでに絡み始める。嫌がらせをする。苛烈になると手を出すこともあった。理由などない。虐められる方としては突発的な災難だ。省吾も今の学校に転校してきてから何度も標的にされた。両親がいないこと、家が裕福でもないことで、格好の餌食にされていた節もある。その都度、省吾は耐えた。二人が飽きてしまうまでじっと辛抱するのが最善の策だと、言われるがまま、されるがままに無抵抗を貫いた。
 省吾はとっさに引き返そうと踵を返したが、ユウタが目ざとく見つけ、「省吾」と声を張り上げた。省吾は振り返ったまま立ちすくみ、どうしようかと一瞬ためらったが、このまま去ってしまうと、あとで何らかの報復を受けることは間違いない。
 タツヤが「雪合戦」と雪玉を掲げて叫んだ。省吾の足は不安を拭いきれないまま、彼らの方へ引きずられていった。公園の雪は今歩いてきた道路よりも深く省吾の膝下まである。なかなか二人の元へたどり着けない焦燥がさらに不安をつのらせた。
 「あけましておめでとう」タツヤが白い歯を見せる。ユウタも「おめでとう。今年もよろしく、な」と省吾の肩に手を回した。省吾は二人の顔を交互に見やると、おめでとう、と軽く顎を引き、かすれた声を漏らした。
「やるよね、雪合戦」タツヤの気さくだが冷徹な響きを帯びた口調に、省吾は漠とした不安を抱えながらもうなずくしかなかった。
「あ、罰ゲームもあるからな」とユウタがタツヤの方を向いて意味ありげな笑みを口元に浮かべた。タツヤはユウタをいさめるように片頬を歪めると、「お遊び、お遊び」と省吾に笑って見せた。そしてユウタと省吾に背を向けると、そのまま二人から等間隔に距離を取り始め、五メートルくらい離れると、持っていた雪玉をいきなりユウタに向かって投げつけた。パシャとユウタの首筋に命中した。
「ちべてえ」ユウタが首をすくめ、笑いながらしゃがみ込んだ。そのまま右手ですくった雪を両手で素早く固め、次の武器を作ろうとしていたタツヤめがけて投げ込んだ。しかし、不十分な硬さの雪玉はタツヤの手前で、ほどけて雪片となって散った。
「省吾も投げろよ」
 ユウタが叫んで雪玉を持つ右手でタツヤを指す。省吾はとりあえず足元の雪をすくって固め始めた。視線はタツヤとユウタの動きを追っている。手袋をしていないことに気づいた。冷たさが身体の芯にまで滲みこむ。赤くなった手が痛痒くなる。が、雪の密度が濃くなる感触は直(じか)に伝わった。
「省吾、ユウタをねらって」
 タツヤも顎でユウタを指し示すと、ユウタが咄嗟に省吾に向きを変え、両腕で顔を隠すようにしながら怯む格好を見せた。省吾の口元が緩んだ。不安に満ちた緊張から解放されたように、動作が少し機敏になる。持っていた雪玉をユウタめがけて投げ込んだ。「ひやあー」と叫んで、ユウタがおどけた調子で身をくねらせ球をよけた。省吾の口から笑いが漏れる。二人から認めてもらえている、そんな喜びが省吾の心に湧き上がってきた。
 それから、三人入り乱れての雪合戦となった。だが、省吾は自分が二人から巧妙に狙われているということには全く気付いていない。タツヤとユウタがお互い罵りながら投げ合っても、どことなく芝居がかった仕草のようにしか見えない。雪玉を作るのもおざなりだ。かたや入念に固められた雪球は、一瞬のスキを突いて鋭く省吾に飛んでくる。そのいくつかは顔にも当たった。雪とはいえさすがに固められた球は痛い。顔を顰めてその場にうずくまりたくもなった。だが、ゲームを終了する選択が省吾にあるはずもなく、それどころか、やる気のない姿勢を見せただけで二人から叱責され、怒りを買ってしまうことにもなりかねない。省吾は、無理に笑みを浮かべ、感覚の麻痺してきた手で、雪玉を作り続けた。
三人の息はあがり、口の周りは絶えず白い靄で覆われるようになった。動きも緩慢になり、お互い申し合わせたように、鎖につながれたような足取りで三角形の真ん中に集まってきた。省吾も火照った顔にはにかんだ表情を浮かべながら、ハアハア息を切らして二人に歩み寄った。
「ユウタは?」タツヤが訊く。
「オレ? ええと、タツヤに五発、省吾に十三発……うん、たしか、そうだった」
「省吾は?」
 誰に何発、雪玉を当てたか、おそらくそれを訊かれているのだろう。だが、省吾にそんな意識など初めからなかった。
「わかんない」唾を呑みこむように先に喉が動き、首を振った。
「オレに当たったのは四発」
ユウタがすかさず言葉を挟んだ。
「僕には二発だ。省吾に当てたのが一五で、ユウタに七……」タツヤは上目づかいで、すくうように省吾の顔を見ると「省吾の負けだな」あっさりとした口調で続けた。
「省吾君」タツヤの目に挑むような光が宿った。「さあ罰を受けてもらいます」
「え……」省吾の表情が翳る。
「負けたやつ、一番玉を当てられたヤツな、そいつが罰を受ける」ユウタが引き取って説明を加えた。省吾が訝し気に二人の顔を見やる。火照った体が緊張感に吸い取られるように熱を失っていく。息だけがまだ荒い。
「何をするの?」
「二人に千円ずつ払う」タツヤが冷たく即答した。
冗談かもしれない、淡い期待を寄せて省吾は引き攣ったような笑みを見せた。だが、二人は何も言わず口端を歪めて省吾を見下ろしている。大きく息を吸い込むと冷たい外気が省吾の鼻孔を強く刺激し、目がかすんだ。

 家に帰ると、靖子はこたつに入ったまま横になっていた。テレビの音量は絞られたままで、人気芸人の漫才に、観客の笑い声だけが部屋に拡散する。だが、靖子の軽い寝息は規則的に刻まれていた。省吾は足音を忍ばせ、寝ている靖子の背後にある茶箪笥の前に立った。ほつれ毛の貼りついた靖子の頬が下に見える。省吾は胸くらいの高さにある抽斗をそっと引いた。指に軽い抵抗が加わり、微かな軋み音が鼓膜に響く。靖子を見下ろす。三秒ほど息を止め、それからまた作業に取り掛かる。小銭入れがまず目に入り、それから先ほどもらったお年玉袋と同じ信用金庫の封筒が三つ見えた。それぞれに「生活費」、「健康保険」、「町内会費」と手書きされている。靖子の寝顔を窺い、寝息に乱れがないのを確かめると、省吾は生活費と書かれた封筒から千円札を一枚抜き出そうとした。
「省吾」下からかすれた声。その声を元に戻すように空咳がふたつ。「何してんの」横になったままの姿勢で靖子が省吾を見上げている。穏やかだが哀しそうな目だった。

 「遅い」公園に戻った省吾の姿を目にするとユウタが叫び、「風邪ひいたら省吾のせいだからな」と大声で罵った。
「持ってきたあ?」タツヤが右手を差し出す。省吾はズボンのポケットからお年玉と書かれた封筒を引っ張り出し、千円札を抜き出すとタツヤに渡した。
「はあ?」
 タツヤが千円札をひらひらさせながら、ユウタに首を傾げて見せた。ユウタが省吾の両肩に手をかける。下から顔を覗き込むように、
「省吾君、ふざけないでくれる」とその手でそのまま省吾を突き飛ばした。省吾は後ろ倒しになり、背中を雪にうずめた。
「もう一度家に戻って取って来いよ。遅れんなよ。風邪ひいたらマジ上乗せするからな」
ユウタがしゃがみ込んで、省吾の顔に一握りの雪を散らした。
「もう、ないよ」
「だれからもらったの、それ」
 タツヤは省吾が手にしていた封筒を指さした。
「……ばあちゃん」
「そうか、省吾んとこ、親、いねえんだもんな。かわいそー」とユウタは眉根を寄せ、「で?」と省吾の足を軽く蹴った。省吾の視線が泳ぐ。
「じゃあ、ばあちゃんからもっともらって来なよ」タツヤが諭すように穏やかな声を出す。
「うち、お金そんなにない」
 反射的に少々荒げた声が出てしまったことに省吾も自分で気づいた。タツヤの目に冷ややかな光が走った。
「わかった。じゃあ、省吾君、貧乏人だから千円は許してあげます。その代わり……」
 タツヤは省吾を引っ張り上げると、物置まで押すようにして歩かせた。
「ほら、ここに立って」
 建物を背に省吾を立たせると、タツヤは距離を取り、ユウタと並んで省吾と向き合った。
「これから、雪投げるから逃げないでよ。十個当るまでね」タツヤがユウタに目配せした。二人が足元の雪をすくい、両手でゆっくり固めると、まずタツヤが最初に投じた。玉は逸れて省吾の右横の壁に当たって砕けた。ドスッというくぐもった音がして、雪の破片が壁にこびりついた。当たったら痛そうだ。省吾は首をすくめて身を捩った。
「ちゃんとこっち向いてろよ」
 ユウタが怒鳴りながら次に投げた。省吾の肩に命中した。しびれるような痛さが省吾の体中を走る。顔を顰め、肩をさすった。
「はい、一発」ユウタが人差し指を掲げる。 タツヤが放った二発目は省吾の唇の右端を直撃した。省吾はたまらず、しゃがみ込む。目の端から涙が滲みだした。
「タツヤ、顔はいてえよ。大丈夫か、省吾」
 ユウタが笑いながら省吾に駆け寄り、襟首から雪を背中に入れた。ひりっ、とする冷たさで省吾は背を反らした。タツヤが雪を固めながら「省吾君、ほら、立って」と口の端を上げて笑った。恐怖が全身を貫く。省吾は膝をついたまま両手をだらりと下げ、天を仰ぐように大声で泣き出した。タツヤは、勢いをつけて左足を踏み込み振りかぶる。
「こらあー」
 男の野太い声が公園の入り口から響いた。

 タツヤとユウタがいなくなった後も、省吾は泣き続けた。雪の痛みと冷たさ、二人から解放されたという安堵、祖母からもらったお年玉を取られてしまったという情けなさ、そんな思いが入り混じった苦い感情だった。緑色のニット帽をかぶった男が眉根に皺を寄せて立っていた。昨日、スーパーで見かけた男だ。男は黙って省吾を見つめている。泣き続けるのも男に申し訳ないと感じた省吾は、助けてくれたお礼か何かを言わなくてはと思いつつも嗚咽は言葉を妨げる。やがて鼻を啜る音だけになったとき、男が口を開いた。
「つらいよな」先ほどの荒げた大声とは異なり、抑揚を欠いた低い声だった。黒ずんだ顔に白いものの混じった無精ひげが雪の光で浮き立って見える。その口元は虚ろげに微笑んでいた。
「待ってろ」
 男はそういうと、雪の上をざくりざくりと物置に向かって歩き出した。滑りの悪くなった引き戸をガタガタ鳴らしながら開けると中へ入って行き、やがて一本のスコップを肩に担いで戻ってきた。自分の家の物でもあるかのような違和感のない動きだ。省吾は以前何度か、大人たちが砂場の砂をスコップで掘り返しては均(なら)している作業を見かけたことがある。そのスコップだろう。
「かまくら……知ってるか」男が、スコップを雪にぐさっと刺し込む。何かの教科書かテレビで見たことのある雪国の風物、雪で作られたドーム型の小屋を省吾は思い浮かべた。が、間違っているかもしれないと思い、曖昧に首を軽く傾げて見せた。
「かまくら、作ってやる。来な」
 男は公園の東側の方へ雪の上を進み、省吾は男の踏みつけた長靴跡の上を歩いた。隅のカシの木の下まで来ると、男は辺りを見回し、このへんでいいか、といった様子で頷く。そしてスコップの先端で半径一メートルほどの円を描いた。そこに外周の雪をすくって、円内に放り込み始める。省吾は男の背後に立って作業を見守った。雪をぐさりとすくうと、そのまま円内にどさりと放り込む。作業に無駄がなく、一定のリズムを刻む。スコップの軌道が乱れることもない。雪がうずたかくなっていく。十回ほどその作業を繰り返すと、男は雪を踏みつけたり、スコップの背で叩いたりして固める。叩いて固めて、さらにその上に雪を積んでいく。ぐさり、ぐさり、どさっ、どさっ、パンパンという音だけが公園内に響いた。男の作業は鈍くなることもなく続けられる。こめかみに汗が滲んで淡く輝き始めた。口から吐き出される白い息も間隔が短くなり、やがて息の音が省吾の耳にはっきり届くようになった。ようやく、男がスコップを下に突き刺し腰を伸ばした。手袋をした手で顔の汗を拭い、息を調えている。男は雪の上に輪郭を浮かび上がらせた直径二メートル、高さ三〇センチほどの円の台地を見下ろした。
「俺の田舎じゃ」男は、ニットの帽子を脱いで、手袋のまま薄くなった頭を掻きだした。「四、五人、入れるくらいでっかいの、作るんだけどな」
 省吾は、目の前の雪の土台を見て、雪国のかまくらに思いを馳せた。
「秋田なんだけどな、雪もこんなもんじゃねえよ。ほら、ここ」男は、自分のへその高さのところで、スコップを水平にした。
「何て名だ?」
「……省吾」
「省吾一人入れるくらいのかまくら作ってやっからな」
 男は、また作業を再開した。下半身がどっしりとしていて、上半身と両腕だけがしなやかに動く。雪がまた舞い降り始めた。男が手を休めて空を仰ぐ。鈍色(にびいろ)の雲が低く垂れこめ、光はほとんど遮られている。まだ朝の一〇時頃だと思われるのに、墨絵の風景に佇んでいるようだ。男は息を調えながら遠くを見ている。吐く息が次第に静かになる。男の眼が細くなる。
「水、持ってきてくれるか」男は省吾に背を向けたまま、突然声をかけてきた。
「水?」
「ほら」男は振り向き、「あそこの自販機の横のカラ捨てる箱。ペットボトル拾って、水、入れてきてくれ」と指さした。
 省吾は公園入り口に設置されている自動販売機に目をやり、ベンチ横にあるコンクリートの水飲み場に視線を移した。
「おじさん、飲むの?」
「アホ、俺が飲むんじゃねえよ」声が笑っている。「雪にかける」と言い足した。
 省吾は比較的きれいなペットボトルの空容器を三本拾って、水道で水を満たし、男の元へ戻った。男が、ペットボトルを受け取り、水を雪の台地に振り撒いた。水の滲みこんだ雪がシャーベット状に形を崩す。そこをスコップの裏で叩いて固め直す。
「雪を積み上げただけじゃ、もろいんだよ。すぐに崩れる。だからこうして」男はまた水を撒く。空になった容器を省吾に手渡す。省吾も、少々の水じゃ足りないとわかり、空のペットボトルを手に水飲み場に急いだ。二往復した頃、男は、もういい、というように手を振り、また雪を積み上げる作業にもどった。
男は作業に没頭した。省吾も黙って男の作業を見続けた。時折、かまくらの円周に沿って動き、男の横から、あるいは背後から眺めた。やがて言葉のやり取りのない時間が省吾には窮屈になり、何か話しかけたい気分にかられた。そのきっかけをつかむ前に、
「あとは昼からだな」
 雪が省吾の腰の高さくらいに積み上げられた頃、男はスコップを足元に突き刺すと、取っ手に両手をのせ、体重をかけながら大きく白い息を吐いた。
「昼めし食ったら、また来い」
 男はこぢんまりと盛り上がった雪山の周りをゆっくり歩き、出来栄えを点検し、スコップで気になった個所を叩きながら言った。
「うん」
 すぐに返事をしたが、省吾はかまくらが出来上がっていくのをこのままずっと見ていたかった。昼食なんかどうでもいい。というより、靖子と顔を合わせることが、気まずくもあり、恥ずかしくもあった。お金を盗もうとしているところを靖子に見つかり、何も言わずに家を飛び出してきたことをどう言いわけしたらよいか、省吾は家に帰り着くまでに考えなければならない。それ以上にお年玉をタツヤとユウタに巻き上げられてしまったことを打ち明けるべきかどうか、このことが省吾の心を一層重くしていたのだ。
「近いのか?」
 省吾は公営の共同住宅の名前を教えた。男は自分の住んでいるアパートもこの近くだと言い、スコップを一旦、物置に戻しに行った。

 帰宅する省吾の足取りは何か見えない枷をはめられたように重い。雪道のせいばかりではもちろんない。言い訳の断片が頭の中で空転するばかりで、これ、という案にまとまることなく自宅の玄関まで来てしまった。ドアをそっと開け、静かに閉めた。「おかえり」と靖子が居間から顔をのぞかせた。先ほどの事件もなかったかのようないつもの屈託のない表情だ。居間に入ると、
「元日だから、店閉まってんじゃないの? あ、コンビニかあ」と靖子の淡々とした声。「え?」帰宅後初めて省吾は靖子の顔をまともに見た。
「何、買いたかった?」何気ない問いかけに、省吾はまた視線を畳の上に落とした。沈黙が落ちた。靖子の穏やかな眼差しが感じられるような静かな沈黙だった。
「どちらか片親でもいてくれたらねえ」靖子の低い嘆声が省吾の耳朶を軽く撫でた。省吾はすっと顔を上げた。
「ああ、ごめん、ごめん」靖子は声の調子を上げ、「気にしなくていい。省吾には、ばあちゃんがいる」と顔をくしゃっと崩して、台所に足を向けた。お金を盗もうとしたことを咎める様子は微塵も感じられない。省吾は安堵よりも、重たい澱のようなものが心の底でうねるような思いに駆られた。
靖子の一人娘、つまり省吾の母は省吾が小学三年の夏に離婚した。感情むき出しにもなりかねない親権問題が、このときは真逆の展開を見せた。双方とも親権を放棄したいと譲らなかったのだ。片や自動車部品工場の派遣社員、片やスーパーでレジを打つパートの身で、慰謝料や財産分与で揉めるほどの資産など持ち合わせてはいない両親だった。離婚してもお互い自分だけの生活でぎりぎりだ。しかも、二人とも三十を過ぎたばかりで、まだ将来をあきらめるには早すぎる。しかし、それには省吾の存在が重荷だった。二人とも省吾のことを可愛く思っていなかったわけではない。省吾も人並みに父親、母親との、ささやかではあるが楽しい記憶は今も持っている。男親は自分の分身、女親は自分のお腹を痛めた子、という太古から遺伝子に組み込まれた親子の情愛も絆も、時として冷徹な〝現実〟に無力になることがある。靖子は大いに怒った。東京の娘夫婦が住むアパートで、省吾がそばにいるにもかかわらず、激情的な放棄合戦が繰り広げられると、普段は温厚な靖子も表情を険しくして、「もういい。省吾は私が連れて帰る」と声を震わせながら二人を罵ったのだった。その日のうちに、省吾は靖子に連れられ、久喜の自宅に戻った。それ以来、父親からの連絡はない。母親は住民票の異動、転校の手続きなど当初は頻繁にやり取りもしていたが、生活が落ち着くと、連絡もひと月に一回が、半年に一回となり、新しい男と同棲しているといった近況を靖子に連絡したあと、音信が絶えたのは省吾が小学五年生に進級したばかりのときだった。
 両親に捨てられたという負い目みたいなものが、省吾に祖母との距離をとらせた。同じ屋根の下に住む血族でありながら、省吾には何となくもどかしい遠慮がわだかまっていたのだ。
昼食も雑煮だった。省吾は一杯だけ食べると、隣の寝室へ行き、タンスから手袋を持ち出してきた。
「また出かけんの?」
「かまくら作ってもらってる」
「かまくら?」
「かまくら。ほら雪の」
靖子は合点がいったように二、三度頷いたが、「あれ、北海道とか、寒いところのもんだろ」と目を天井に投げた。
「おじさん。秋田なんだって」
「おじさん?」
「昨日のおじさん、スーパーの」
省吾から総菜コーナーで見かけた男のことを聞くと、靖子は何も言わず、台所へ行き、干し柿を四個、レジ袋に入れて省吾に渡した。

 公園に戻ると、男はすでに作業に取り掛かっていた。公園の樹々から雪も落ち、濡れたカシの葉が薄日を照り返していた。
「おじさん」省吾は大声で呼びかけた。男は作業を続けながら首だけ回し肩越しに頷く。
「早かったな」
「これ」省吾は男の背後に近づくと、干し柿の入ったレジ袋を差し出した。男は手を休め、中を覗き込むと、おっ、と声を漏らす。「干し柿かあ」
「ばあちゃんがくれた」
「やってみるか」男は袋を受け取ると代わりにスコップを省吾の前につきだした。省吾はスコップを持ち両掌に力を込めた。男が掘り続けていた場所に突き刺す。柔らかな感触が残り、そのまま一気にすくい上げると、重心が手元に奪われ、腰がふらつき、足元が乱れた。臍の前でスコップの取っ手を支点にしてやや身を反らせながら体を捻った。そして、積まれつつある雪のてっぺんでドサッと雪を落とした。腕に鈍く引き攣ったような違和感が残る。
「重いだろう」男は笑った。「こんな軽いもんでもな、積もると家でも潰してしまう」
 省吾は、また同じ動きを繰り返した。
「腕の力だけでやろうったってだめだ。腰だ、腰。腰に体重を乗っけろ」 
省吾は、男の言ったことをイメージした。
「腰がスコップを突き刺し、腰が雪をすくい上げる」男の低い声が省吾の身体に響く。腕より先に腰が動いた。腰の回転で雪を乗せたスコップがかまくらの上まで動いた。腕に疲労をほとんど感じない。省吾は男の方を向いて口元を緩めた。
「呑み込みが早えな」男が屈託なく笑う。削げた頬にえくぼができるのを省吾は初めて見た。たしかに、雪の重みを体全体で受け止めている感じだ。一連の動作も何ら抵抗を受けることなく滑らかになったような気がする。省吾はおもしろくなって作業を続けた。単調な動きがリズミカルになる。目に見えて運んだ雪の嵩が増していく。省吾は夢中になった。
「代わろう」
 さすがに重労働だ。省吾の息が荒くなり、作業が緩慢になり始めた頃を見計らって、男が声をかけた。省吾の額には汗が滲み薄紅に染まっている。口で息をし、鼻水を啜る。省吾は男にスコップを渡した。
 男は、午前中も使ったペットボトルに水を汲んできていて、省吾が積み上げた雪に水をかけ、スコップで満遍なく叩いていった。強度が保たれていることに納得したように頷いた男は、その上から再び雪を積み上げ始めた。これまでに何回もかまくら作りをやって慣れているせいもあるのだろうが、すべては規則的に機能的に体全体が動く。かまくらを作る機械だといってもよかった。省吾は男の動きそのものが楽しく目に映った。
「おじさんとこは、子供いないの」
 省吾の口から自然に言葉が出てきた。
「結婚してねえからな」
「しないの?」
「五十近い金もねえ奴のところに来る物好きがいるかよ」男は自嘲気味に口の端を歪めた。
「ひとりなんだ。でも、秋田には親戚、いるんでしょ?」
「農家やっててな……たまに東京出てきて道路工事なんかのアルバイトすんだよ。村から五人くらい一緒に来て……」
 男が手を休め、いきなり乾いた笑い声を発した。そして手袋をはめたまま指をポキポキと鳴らしながら、
「秋田弁知らんだろ?」
 省吾は男の背中を見て首を振った。
「現場の工事監督ってのが、威張り散らすだけの好かねえ野郎でよ。秋田弁でそいつの悪口を言うんだ。わざと聞こえるようにな」男は自分で吹き出した。「けど、何言われてるかわかんねえから、ぽかんとしてやがる」
 男は、スコップを突き刺すと、ジャンパーのポケットからタバコとライターを取り出し、一本咥えて火をつけた。最初の一服でタバコの先が長く燃え続ける。
「兄弟はいるのか」長い煙をふうっと吐いた。
「いない」
「兄貴がいる。兄貴の家族と一緒に暮らすのも何だからよ。東京ででっかいことやってみようと思ってな。若気の至りってやつだ」
 今度は軽くタバコを吸う。省吾は「うん」と言って、男の言葉に耳を貸していることをその背中に伝えた。
「みんな帰っちまったけど、そのまんま、東京に残った」鈍い灰色の雲を男は仰いだ。
「でもな、いいことなんか一つもありゃあしねえ……つらいよなあ」
 タバコの煙がふわりと棚引いて空に溶けた。男はそのまま口を閉ざした。遠くで車の雪道を滑る音が聞こえてくる。

「秋田の方がよかったかなあ、やっぱり」
「帰っちゃうの?」
「帰ったってなあんもねえよ」
「家、あるんでしょう」
「だから、もう俺の家じゃねえって。おやじもおふくろもいねえし。兄貴の家族だけだ」
省吾は何を言っていいかわからず、必死で次の言葉を探した。だが、男の方が先に口を開いた。
「上野から電車乗ってな。うん、東北方面のだ。何度も何度も乗ってよ」男がまた笑う。「おかしいだろう? 帰れもしねえのに、なんでこんな電車に乗る?」
省吾は笑うに笑えない。男は省吾の返事を待つことなく、抑揚のない口調で続けた。
「いつも久喜で降りた……」
 男はそのうち久喜市内にアパート借りて住むようになった。体力には自信があったから日雇いの肉体労働でもそれほど苦じゃなかった。そんな話を男は淡々と続け、「秋田にいたときより、ここの方が長くなっちまった」と結び、タバコを雪で消してズボンのポケットに入れた。男の両肩が小刻みに動いて、くぐもった笑い声が漏れ、やがて静かになった。省吾はこの沈黙にしばらく付き合っていたい、となぜか思った。
 省吾の身長ほどもある雪山が出来上がった。かまくらの周りの雪がさらに円を描いたように掘られてしまって、ところどころ黒い土が現れている。
「こんなもんか」男は、雪山の前にしゃがみ込むと、スコップを短く持ち先端で壁面を穿ち始めた。慎重な手つきで、しかし大胆に。時折、強度に問題はないか、手袋をはめた手で、穴の壁面を叩いたり、なぞったりして確かめた。中の雪を掻きだし、広がりつつある穴の壁面をスコップの先端で削りながら、形を整えていく。やがて雪山に穴がくり抜かれた。人ひとりが入れる入り口とその奥に広がる空洞。
「入ってみろ」
 男が省吾を手招きし脇に寄った。省吾が入口にしゃがみ込み、首だけ入れて巡らした。薄日を貪欲に取り込んで奥の雪の壁に淡い輝きが滲み幻想的な空間を浮かべている。省吾の目の色も輝きを宿した。喉の奥から溜息とも感嘆ともつかない声が自然に漏れた。しゃがんだまま体を入れると、雪の匂いに包まれた。予想外に寒くはなく、凛とした空気に程よい緊張を感じる。立ち上がると頭がぶつかってしまうが、腰を下ろすと窮屈さも感じないほどの広さだ。男の大きな顔が入り口からのぞき込んだ。
「どうだ」男が柔和な表情で唇をなめた。
「これがかまくら……」
「いいだろう」
「いい」
「俺の今夜のねぐらだ」
「え? 寝るの? ここで」
「アホ、冗談だ。省吾の隠れ家にしろ」男は豪快に笑った。「けど、こんなに目立つ隠れ家もないがな」と言って、ほら、と干し柿を一個放り込み、省吾は両手で捕らえた。さらに、いつの間にか用意していたらしい段ボールの切れ端を寄越した。
「敷きな。中は意外とあったけえだろう」
 男は入り口にしゃがみ込んだまま干し柿を食べ始めた。省吾も段ボールの上に腰を下ろすとひとくち齧(かじ)った。
 カシの葉を透かして、柔らかな光の条がかまくらに落ちている。だが、冬の早い夕暮れの淡い闇も広がろうとしている時刻だった。男はかまくらの周りをゆっくり歩きながら、気になるところを手直しした。入口のごつごつしたところに水をかけて固め直し、不格好な部分を綺麗に削いだ。さらにスコップで二、三杯、雪を積み増し器用に均していく。省吾の目には、すでに完成した美しいかまくらが映っていたが、男の手は幾何学的にも美的にもより完璧なかまくらを求めているかのように妥協のない動きを続けた。
「省吾」かまくらに視線を据えたまま、男は背中で省吾に語りかけた。
「うん」
「なかなか捨てたもんじゃないだろ」
「かまくら?」
「だけじゃない」
 男は振り返り、口元に笑みを残したまま真顔になった。
「省吾の隠れ家だ。好きに使え」
 男はかまくらのてっぺん辺りを軽くぱんぱんと叩く。
「田舎じゃ、この中で餅を焼くんだがな。けど危ないから火は使うな。その代わり」
カシの木の枝につるしてあったコンビニのレジ袋を、ほれ、と言って省吾に渡した。中を覗くと、ポテトチップス、チョコバー、クッキー、菓子パンなどが入っている。
「金、ねえんだ。すまんな」男が表情を崩し、目顔で謝る仕草を見せる。
「いいの?」興奮気味の省吾の顔がさらに輝きを増した。男は省吾の眼差しに照れたように、視線を逸らした。
公園の雪は灰色がかったくすんだ色に染まり始め、かまくらも濃い紫色に移ろいながら闇に溶けようとしている。
「明日来い。水、含ませてるから、明日はもっと頑丈になってるぞ」
「おじさんも来る?」
「いや、正月は寝正月と決めてんだ。今日も雪が積もってなけりゃ家で寝ていた」
「田舎、思い出すよね」
「生意気な」男は目尻に皺をよせ、右手で省吾の頭をごりごりと撫でた。
「省吾……」男は真顔になった。
「ん?」
沈黙が落ちた。省吾はじっと男の目を見つめている。やがて、男が
「なんか言いたいけどよ。俺、バカだから。何言ったらいいかわかんねえ」と首を振った。
男は、スコップを物置に戻しに行き、そのまま公園の入り口に向かった。
「おじさん、またね」省吾が袋を持ったまま両手を掲げて振ると、男は振り向くこともなく右手をあげた。「ばあちゃんに、干し柿の礼言っといてくれよな」

 家路を歩く省吾の足取りは軽かった。人の通り過ぎた歩道の雪があらかた溶けて歩きやすくもあった。タツヤたちに巻き上げられてしまったお年玉の埋め合わせの理由もついた。もちろん嘘であることの後ろめたさは拭えないが、靖子の切なそうな翳った顔を見ることもないだろう。それだけで省吾の心は幾分軽くなった。
「買っちゃった」玄関を入った省吾は雨靴を脱ぎながら、恥ずかしそうに袋を掲げた。
「お菓子? そんなもんしか買えなくてごめんね」と玄関に出てきた靖子が眉根を寄せて何度もうなずいた。省吾は、そんな申し訳なさそうな表情を浮かべる祖母を見て、また心に澱んだものが渦を巻き始めるような感覚に襲われた。靖子は省吾がお年玉の千円でお菓子を買ったと信じ込んでいるらしい。お金を盗もうとしたことも、孫に欲しい物を買い与え得ない我が家の境遇のせいだと嘆いているのかもしれない。ちがうんだよ、ばあちゃん、ちがうんだよ。省吾の心は重く膨らみ、迷いと躊躇いで意識は揺れ動いたが、思いもかけず口は「ばあちゃん」と呼びかけていた。
 省吾は今日の出来事を話した。タツヤとユウタと雪合戦をしたこと。負けてお年玉の千円を払ったこと。
「ごめんね、本当は二千円だったんだ。だから、ばあちゃんが寝ているときに……」
結局千円しか払えず、罰ゲームを受けたが、昨夜、スーパーで見かけたおじさんが助けてくれて、その後かまくらを作ってくれたこと、そして袋に視線を移し、「これも」と話を締めくくった。
 靖子は穏やかな表情で黙って聞いていた。そして茶箪笥の抽斗から小銭入れを取り出すと、中から五百円玉を一枚抜き出し、省吾に握らせた。
「お雑煮の残りだけど。あ、かまぼこ切ってやろうかね」靖子は、それ以上何も言わずに台所へ向かった。細い背中を目で追って、省吾はその時、体の芯がうずくような猛烈な切なさを感じた。
 二日目の朝は、冬の透き通った光に包まれてクリスタルガラスのように輝いていた。窓外を眺めやると、屋根や道路の脇、人が足を踏み入れないような場所に残雪が斑となっている。道のところどころに雪解けの水たまりがあり、陽光を銀色に跳ね返していた。朝食はかまくらの中で食べるからと言って、靖子に砂糖醤油に浸した焼いた餅を二個、アルミホイールに包んでもらった。それを昨日男にもらったコンビニ袋に一緒にしまうと、小走りに玄関の方へ向かった。
「だいぶ融けたようだけど、大丈夫かね」
 靖子は、きな粉をまぶした餅を食べながら省吾に声をかけた。
「水かけて固めてあるんだ。公園の隅っこだし、三日くらいはもつって」
「おじさんのも、餅、焼こうか?……固くなっちゃうかねえ」
「来ない。たぶん」省吾は首を振ったが、そう言いながら、無性に男に会いたいと思った。

 公園は人の出入りも少なかったせいか、地面にはまだかなりの雪が残っていた。歩くとジャリッと湿った音がする。砂場も縁の上の雪が長方形に浮かび上がっていた。
 そして、かまくらはカシの木の下でどっしりとその威容を保ち、光を浴びて乳白色の光沢を放っていた。省吾はかまくらの中に入った。外気とは別の澄んだ冷気に包まれる。コンビニ袋からポテトチップスを取り出すと、一枚つまんで口に入れた。乾燥した塩味が口中に広がる。それから、アルミホイールに包んだ餅を食べ始めた。まだ柔らかな噛みごたえがあり、砂糖醤油の甘い香りが鼻孔をくすぐる。省吾は、学校の図書館で読んだ「トム・ソーヤの冒険」を思い出した。僕はトム・ソーヤ。そしてここは僕だけの隠れ家。
「変なオヤジとなんか作ってやがると思ったけど、へーえ。いいじゃん」
タツヤとユウタの顔が突然、かまくらの入り口を塞いだ。含みの宿った狡猾そうな視線が舐めるように省吾にからみつく。省吾は身構えながら、うしろの壁に背をつけた。
「俺たちも入れてくれよ」ユウタが返事を待つことなく足を中に踏み入れてきた。省吾が餅を口に入れたまま、哀願するように頭を振る。壁の冷たさが背中全体を駆けた。
「省吾、俺たち友達だろう」ユウタが無理やり押し入ってきた。体が密着し、顔が間近に迫ってくる。全身が強張った。
「省吾君、交代」タツヤの威圧的で傲慢な声が反響して体が震える。省吾は戸惑った。ここはおじさんが作ってくれた自分だけの隠れ家だ。他の子供たちだったら入れてやらないこともないけれど、この二人には乗っ取られてしまうおそれがある。ユウタがポテトチップスの袋をつかんだ。省吾は咄嗟に奪い返した。
「ふざけんな」ユウタが怒鳴りながら、げんこつで省吾の横腹に突きを入れた。息が止まる。口の中の餅が呼吸を妨げる。省吾はわき腹を押さえて顔を歪め、無理やり餅を呑みこんだ。
「文句あんのか」ユウタの足が省吾の右太腿に延びてくると、省吾は反射的にユウタにつかみかかった。ユウタは省吾を捻り返すと馬乗りになって、顔を雪の床にこすりつけた。
「こんなん食ってんの?」タツヤは、省吾が持っていたアルミホイールを奪い捨てると、足で踏みつけた。餅がタツヤの靴にこびりつく。
「ちっ」タツヤが靴底を雪にこすりつけてはがそうとするが、かえって餅は粘りつく。
「頭に来た。ユウタ、壊すぞ」
 ユウタが嬉々として外に這いだしてきた。二人は、かまくらに体ごと突進したり、飛び蹴りを加えたりしてかまくらを破壊し始めた。
「やめてよ」省吾はかまくらの中から叫んだ。
「僕の隠れ家なんだ」
「隠れ家なんて贅沢だよ」タツヤの声が崩れた天井から落ちてきた。壁に穴が開いた。「やめろー」省吾が喉の奥から絞り出すように叫びながら、這い出ようとした。が、タツヤは足裏で省吾の動きを封じた。すかさず、ユウタがかまくらの上へダイビングし、残骸をことごとく崩してしまった。
 顔と胸と手足の一部を残し、省吾の身体は雪に埋もれた。タツヤとユウタが立ち去った後も、省吾は動かずにじっと空を見上げていた。空も省吾も冷えていく。右手に握っていたポテトチップスの袋から一枚をつまみだし、口に入れゆっくりと噛みだす。目尻に涙が滲み潤んだ。必死に嗚咽を我慢するように、ポテトチップスを五枚ほど口に押し込む。塩味がしみて、むせるような音が吐き出されると、激しくせき込んだ。涙が堰を切ったようにあふれ出した。
 不思議な感覚だった。怒りや屈辱が増幅してこない。
 ただ、省吾は男を捜しに行こうと思った。そしてかまくらを壊されたことを謝ろうと思った。

短歌部門準賞

生きたい

立原ようこ(78)=たちはら・ようこ=朝霞市

雑談のごとく余命を告げられてああそうですかと相槌を打つ

私より私の明日(あす)を知っている外科医は太き眉をしている

膵臓の何かも知らずサインする摘出手術承諾書類

レントゲン エコーにCT МRI機械に合わせ身体(からだ)を捩る

手術日はただニコニコと笑ってた眠りに落ちるその瞬間(とき)さえも

目覚めればチューブ絡まり一二三(いちにさん) 五(ご)まで数えて笑ってしまう

泣く事もできぬ相部屋深夜二時胎児の形に丸まってみる

ありがとう大丈夫です繰り返す生き行く術(すべ)をいつか覚えて

テーブルに抗癌剤を広げれば2DKは既に病室

指先が褐色になる副作用この手の罪を暴くがごとく

包丁を見ても怖がる傷痕に大丈夫だよと掌あてる

ベッドよりキッチン見れば夫(つま)ひとり小さな鍋で味噌汁つくる

燃えるゴミ燃えないゴミの分別(ぶんべつ)を教師のごとく夫に教える

できる事何んでもすると息子いうきっと誰にも何もできない

死ぬまでにやりたい事など何も無くまた母しているまた妻している

街中(まちじゅう)が呼吸している生きているビルも道路も騒音までも

大海(たいかい)の一滴なれどこの生命(いのち)ベランダ岬で情(おも)い波立つ

力なき腕の中でも初孫は泣いて笑って生命(いのち)そのもの

生きたくてただ生きたくて生きたくて小春日和の今日は尚更

日記閉じ明日の予定も書き終えて月夜の湯舟にポッカリ浮かぶ

花柄ブラウス

河竹由利(69)=かわたけ・ゆり=さいたま市

口出づる言葉が雅語となりゆける午後なり梅の花ゆるぶ季(とき)

木漏れ陽がそれぞれ音符となる春を けふはうれしき用事のありて

風に向け唄ふやうなるひなげしにもし声あらば細きソプラノ

短かる春の記憶をほどきつつ花柄ブラウスを軒に干しをり

昨夜(きぞ)からを物語りする雨なれば耳やはらかくキッチンに立つ

ざらざらの言葉ばかりが出たがる日だから寡黙に梨を剥きをり

翻訳の出来ぬ鳥語を吐きながらわが町川に青鷺立てり

老いひとり転べるを見てしまひたりうつとり鎮もる町が綻ぶ

掃除機が吸はざるごみをそと摘まむ やはらかき手をもつ人われは

小器に不安のかたちを揺らしゐる温泉たまごはわれかも知れず

「恥」の字を「やさし」と読ませるやさしさのやまと言葉がひとつある歌

キーボード打てば言葉らが愉しげに放たるるごとわれを出でゆく

いつも五分進む時計に目守られていつも五分のやさしさに寝る

迷ひ児のつんざくやうな泣き声に記憶のなかのわれが振り向く

大仰な感嘆の声に健康が売らるるBSテレビの真昼

めんだうが夫婦の間合ひにちやうど良い 莢ある枝豆無口に食めば

コンクリに旅して来たる一つ花だれよりたのしき花として咲く

花束のやうに付箋が揺れてをり友のたのしき歌集一冊

さう言へば夜のバスとふ詩情にはほど遠くゐてドラマ見てをり

今日の空を小さくちぎり狭庭辺の吾(あ)に手渡すや蜆蝶(しじみ)ひとひら

詩部門準賞

水の日

関根由美子(77)=せきね・ゆみこ=群馬県前橋市

かずおと
水の日に
半世紀ぶりに同窓会で逢った

赤いランドセルに
やかんの水を注がれた日の
記憶の水が
木造校舎の傷む床に
シト ト トと滲みてくる

ガキ大将のかずおと隣合せ
お下げ髪をひっぱる
色鉛筆をもぎとる

内弁慶のわたしは
だまって こごんで
びしょびしょに濡れていた

色鉛筆 消しゴム ノート
セルロイドの筆箱 石盤
国語の本

 さいた さいた さくらがさいた

さいたさくらの花の頁から
雫がおちた 薄紅色に捩れた
水のランドセルを背負って
ちいさな橋を渡って帰った

かずおが死んだ
――カンベンナ

ぶっきらぼうな背中の下に落ちていた

会葬

菅野浩芊(76)=すがの・ひろしげ=さいたま市

六月の蒸し暑い日の授業

両の手の上に顔を埋め
少女はこんこんと眠りこけていた
教師は短く注意した
――さん、起きなさい

ややあって
教師は再び見た
長い髪を机いっぱいに広げて
眠りこけている少女の姿だった
教師はその頭をそっと持ち上げ
今度は少し強く注意した
――そんなに眠いなら
保健室に行って眠りなさい、と

少女は
恥ずかしげに目を伏せ
ちいさく言った
――ごめんなさい

しかし少女の頭は
三たび
机の上に投げ出されていた
教科書とノートを足下に落としたまま
教師はもはや何も言わなかった
言わずに思っていた
この子には
学ぶ意欲が欠けているのだ
学ぶことから逃れたいのだ、と

数日間欠席を続けた少女の祖母から
少女の突然の死と
死の原因とを
教師は知った

彼女は
喘息持ちだった
その発作が
彼女から夜の眠りを奪っていたこと
定められた量を超えて
薬を飲み続け
心臓に
多大な負担を強いたこと、などを

会葬の日
ベッドに細く横たわった少女の前に
教師は立った
立ちつくしたまま
少女の閉ざされた口元を見つめていた

もはや誰にもとがめられない眠りを
固く抱きしめて
この子は
今、旅だって行くのだ
かっちりと合わされた両の掌の中に
何かを封印したまま
この子は
たったひとり
遠ざかって行くのだ

その絶対の拒絶
そのかたくなな孤独を前にして
教師に
何が言えただろう
何がしてやれただろう

だが教師には分かっていた
すべてから解放され
眠り続けるこの子の無言のことば
そのさびしげな
しかしあまりにも確かな響きを
自分はどこまでも
どこにいても
聴き続けなければならないだろうことを

俳句部門準賞

頬杖

木村佑(59)=わたなべ・てるお=栃木県栃木市

海底に大き坂あり牧水忌

新涼や少女の耳の透きとほる

白桃の傷ある方へ転びけり

小夜しぐれ都会を映す潦

眼裏の奥行き深し春眠し

風の尾を掴みて空へ風船は

花過ぎの雨しづもりて街無色

六月の窓むつかしき顔ばかり

弁当の蓋の米粒夏に入る

まづ影を落としプールへ飛び込みぬ

言の葉を置きて線香花火かな

静寂と無音を行き来して海月

青春の翼の痒み晩夏光

脳内の部屋を訪ぬる夜長かな

秋愁やワインボトルの底の澱

凍月へかかるは寄る辺なき雲か

縺るれば解けぬ糸や秋蛍

地球儀の丸き影ある良夜かな

星屑のいま流星となるところ

頬杖をつき初蝶を待つてゐる

猫よ叱叱(しっしっ)

服部早苗(75)=はっとり・さなえ=さいたま市

病歴も自慢となりて山笑ふ

さへづりや小さき鍵の投句箱

日曜の午後の無聊や花の雨

水面引き締め鰺刺の急降下

デッキより指呼の島々サングラス

潮引きて島へ熱砂の道長し

引き潮に引き残されし水母かな

夏雲白しオリーブの実の青し

熊蝉の腹震はする発願寺

東京上空機首大南風へ旋回す

網戸あけ入りくる隣の猫よ叱叱

殺生石割れたることを道をしへ

車止めがはりの鉢や萩の花

子規庵に平らな時間草は実に

十六夜やひとりが響く跨線橋

貯水池のふくらんでゐる虫の闇

秋風に梳らるる爪の筋

田の神の遊ぶきらめき稲雀

先生の鞄が匂ふ花梨の実

初冬や吉野の葛粉水に溶き

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