2020年正賞・準賞発表
埼玉文学賞とは
埼玉新聞社創刊25周年を記念して1969年に制定した「埼玉文学賞」は文学を志す人たちを長年にわたり支援してきました。今年で51回。毎年幅広い年代から作品を集め、県内外から注目される文学コンクールです。小説、詩、短歌、俳句の4部門。埼玉りそな銀行から特別協賛をいただいております。
第51回埼玉文学賞審査員
小説部門 | 高橋千劔破 | 新津きよみ | 三田完 |
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詩部門 | 木坂涼 | 北畑光男 | 中原道夫 |
短歌部門 | 沖ななも | 金子貞雄 | 杜澤光一郎 |
俳句部門 | 鎌倉佐弓 | 佐怒賀直美 | 山﨑十生 |
小説部門正賞
つぎつぎ、生る
渓木けい(31)=たにき・けい=さいたま市
この春に植えたゴーヤがもう実をつけた。亀虫の色を薄めたような堅い種の端っこを、発芽しやすいよう爪切りで切って植えたのは、リモートワークが導入されて、秩父のこの家に帰ってきた5月だった。「ステイ・ホーム」は手持ち無沙汰だからと姉には言っておいたけれど、内心ではこの家の畑で何かを育ててみたいという気持ちが、前々から浩介にはあった。
例年ならこの季節になると、畑で採れた胡瓜だの茄子だのが、母からひっきりなしに浩介の暮らす東京のアパートへ送られてきて、そのたびごとに、職場の同僚や久々に会う友人に配って歩かないと冷蔵庫があふれてしまう。実家の畑で採れた野菜です、無農薬ですよ、というと、とくに女性社員などはうわあ美味しそう、埼玉のご実家で畑なんてさぞかし広くてご立派なお家なんでしょう、と笑顔を見せてくれたが、埼玉といっても西部の奥地であるこのあたりなら、例えどんなあばら屋にでもたいてい畑があるということは言わないでおいた。
夏ならば胡瓜や茄子、秋は人参に玉葱、冬は白菜という、母からのこのささやかで頻繁な仕送りが、「いつも野菜をくれる人」として無口な自分に職場でのおぼろげな居場所をつくってくれていて、東京で暮らしているときはそういう意図の親ごころだと解釈していたのだが、秩父の森の中にあるこの家でひと夏を過ごしてみると何のことはない、自分と同じで家じゅうが野菜だらけにならないように応急処置を重ねた結果、気軽に渡せる相手に野菜を押しつけているのにすぎないことがよく分かった。少し種を蒔くのが遅いのではと心配したゴーヤの実も、毎年同じ場所で同じように母が育てている胡瓜も茄子も、とにかく無限に生りつづけるのだ。
「ゴーヤって何にするの? チャンプルーくらいしかないでしょ」
はん、と鼻で笑うようにして言ってきた姉に、鰹節とめんつゆで煮浸しにしても美味しいし、佃煮も意外にいける、ただツナと炒めるだけでもいいしスムージーに入れると信じられないほどお通じがよくなるよ、と浩介はすかさず言いかえし、煮浸しだとのりたまふりかけが意外と合うんだよね、アレンジで。だから何でもいけるよゴーヤは。つづけざまに言ったが姉は途中から聞く気が失せたというように仕事に戻っていた。
市内のちいさな小学校で教師をしている姉は、家でも採点だの授業の準備だのに追われていて、家事や畑の手入れをする暇がないと主張している。今だってダイニングに優雅に腰掛けている姉が赤ペン業務にいそしんでいる傍らで、母が床にぺったりと子どものように座り、姉の洗濯物を畳んでいるのだ。その中に、うっすら子ども時代の姉が着ていたおぼえのある、キャラクターもののキャミソールがあり、結婚してたときもこういうの着てたのかな、という想像が頭をかすめてしまう。
元夫である孝史さんと姉は、今もときどきスカイプで通話をしているようだ。いい加減スマホ買えばといっても、壊れてもないのに何のために買い換えるの、という姉はラインもズームもいまだに、線、みたいな名前のやつ、とか、ズーン、などと呼ぶ。
ほら見て、と「ゴーヤ レシピ」で検索したスマホ画面を姉に差し出すと、虫でも追い払うかのように掌でしっしとはらわれた。これしまって、と足元から声がしたので見下ろすとちょこなんと座った母の周りに、畳み終えた洗濯物たちが、折り紙のようにぴったりと重ねられている。亡くなった父に代わってこの家の主となったのは姉だということらしい、と浩介はおとなしくタオルを洗面所へ運んだ。
きちきちと洗濯物をたたむように、三年前に未亡人となった母の毎日は規則的にいとなまれている。父の葬儀には、数少なくなった近所の人たちもやってきて、「お見舞い」を供えていった。「え、御霊前、じゃないの普通」と田舎の住民の非常識を種に母の笑顔をひきだそうとしたが、「このへんでは『お見舞い』なのよ」と棘のある口調でぴしゃりと言われた。火葬から骨を囲んでの葬儀のあいだ、母は大きく泣き崩れることもなければ近所の人たちに笑顔を見せることもなかった。黒無地着物の母の背中で、浩介が姉に、あんな着物あったんだ、とひそひそ話すと、おばあちゃんのでしょ、と返ってきた。じゃあ次は姉ちゃんが着るの、と言うと、次って何、と睨まれた。
葬儀では母も姉も浩介も泣かなかった。遺体を焼く前、家の中に寝せておいたところに父と懇意にしていた新井さんという人がたずねてきて、「では」とおもむろに日本酒を口にふくむと、ぷっ、と父のなきがらに思い切り吹きかけた。浩介は心底驚いて、怒ったほうが良いのか笑ったほうが良いのかとまどっていたが、母が「ありがとうございます」と神妙にしているので「そういうもの」なのだと察した。その後も何人かが訪ねてきては、父に酒をふきかけた。新井さんのように慣れた手つき口つきで霧状に噴射できればまだ良いものの、慣れていない人は日本酒を、ただよだれが垂れたように父にかけてしまったりして、そんな理不尽な状況の中でかしこまっている母を前に、浩介は何も、おかしなことだと感じられなくなってしまったのだ。
そのぼんやりとした気分の中に、父の死という事実はあっけなくのまれてしまい、浩介はただ半玉のように母の動作や表情を真似て、父の死に際するその数日をすごし、事がすんだら舞台袖にひっこむように、そそくさと東京へ戻った。終始、狐につままれたような気持ちだった。
父の死後、母の生活はますますこの家の時計みたいになっていた。朝は5時に目ざめ、決まった情報番組をテレビで流しながら朝食をつくり、姉を起こすと箒と雑巾をかけて家の中をまわり、姉を送り出すと畑に出て草むしりや水まきをして、近所に野菜を配って回る。昼食は簡単な麺類などで済ませ、昼食の片付けが済むと車で20分ほどのところにあるスーパーヤオコーに買い出しにでかけ、午後4時になると風呂をわかしながら夕食の準備をゆっくりとはじめる。NHKをかけながら夕食をたいらげると、姉を風呂に入らせながら後片付けをし、姉が出てくると二番風呂に入って、一時間ほどテレビを見たあとで布団を敷いて寝る。これが母の生活のすべてだ。
そんな母を心配した浩介が東京見物に誘ったときも、「私はいいよ。お姉ちゃんと行ってきたら」と断られた。それで浩介は姉と二人で、東京タワーや皇居を巡るはめになった。離婚をしたばかりの姉はその日一日中無言かつ無表情をつらぬき、東京タワーのエレベーターの中でいきなり、「パンケーキ、食べてみたい」と言った。ふもとのカフェで、浩介は姉にキウイやストロベリーのちりばめられたパンケーキを奢ってみた。姉は皿についた生クリームを残らずフォークですくい上げてなめとりながら、「たいしたことないじゃん」と言い捨てた。赤く点灯する東京タワーを振り向きざまに、「くっだらな」と言ってすたすたと駅に行ってしまい、浩介は姉を追いかけたが、改札に入るときにはその姿を見失ってしまった。せっかく家族を喜ばせようと計画を練ったのに、どうして自分がこんな仕打ちをされないといけないのか。あの日は恋人たちや家族連れを横目で見ながら、泣きたいような気持ちで電車に揺られ、一人暮らしの部屋に戻ったのだ。
ねえちゃんもおれも、年くったな。洗濯物をしまい終えて、すす、すす、と赤ペンを走らせる姉のつむじを見つめながら浩介は思った。おなじ中学高校に通うころ、浩介の姉は容姿端麗かつ成績優秀で有名だった。ショートカットに長く華奢な手脚、きゅっとつまった小さな白い顔は人目を惹いた。一見美少年のような風貌に飾らない性格で、バレンタインには浩介の何倍もチョコレートを貰ってきた。学校を歩けばだれかが自分のことを「絵馬ちゃんの弟くん」と噂する声が聞こえた浩介は、昔から姉にはどんなにきつくあたられても口答えはできないし、奴隷のようにこきつかわれても、後で友達に自慢できると嬉しかった。近所の人に道でばったり会えば「あら、また絵馬ちゃんにいじめられてない?」とにこやかに話しかけられたものだ。絵馬ちゃんはしっかりしてるからねぇ、と親戚に姉が褒められても、嫉妬の感情を覚えたことはない。むしろ、嬉しかったのだ。そんな姉の影にかすむ自分というものが。
朝の挨拶と同じくらい何でもないことのようにぶっきらぼうに、姉が離婚を告げてきたのは父が死んですぐだった。動物園生まれ動物園育ちの象のように、どこか上品な雰囲気をまとう孝史さんを、浩介は好ましく思っていた。だから姉の離婚は残念だった。だからさ、と、多摩のワンルームに、電話越しの姉の声はやけに大きく聞こえた。あたし、お母さんと一緒に暮らすから。あのときの姉の表情は、声からは読み取ることができなかった。
「浩介」
いつの間にか赤ペンを携帯電話に持ちかえていた姉のつむじがしゃべり、ついでふたつの猫めいた瞳が浩介を正面から見すえた。
「ゆうちゃん、家に来ることになったから」
え、夏休みだから? と問いかけると姉は、お前はホント呑気で羨ましいわ、と感情をこめて言った。姉への返答に正解はない。姉と会話するということは、つねにそしてすでに、間違いを悔い改めるということなのだ。
「学校でクラスターが出たんだって」
ああ、ついに、と言ったら、出るのを待っていたのかというように睨まれた。それは大変だね、と、他人事かと怒られるのではないかとびくびくしながら続けたら、意外にも姉はしおらしく眉をひそめて、そうなのよ、と言った。おそらく姉は、人に何かお願いするときだけ、無意識にこうしてしおらしい顔つきをする。小さな頃から容姿で得をしてきた記憶が、そうさせるのかもしれないと浩介は思った。今の姉の顔は相変わらず小づくりに整っているけれど、目尻や生え際に細かな皺が、砂浜に小さく打ち寄せる波のように寄っている。「昔は美人だったんだろうな」と、はじめて姉を見る人は思うだろう。
「だからさあ、ゆうちゃんこの家に来て良いでしょ? ほらあの子、呼吸器が少し弱いじゃない。そんな、クラスターが出たところになんかいいかげん通わせつづけられないもん。あんたみたいな未来のない人間よりねえ、よっぽど疎開しないといけないの。なのに学校に通うためだけに東京にいないといけないなんて可哀想じゃない。なんで学校の体制が整ってないせいで、あんたが疎開できてるのにゆうちゃんが危険にさらされてないといけないの」
ごめん、と反射的に謝ってしまってからいや謝ることはないよな、と思ったが、四十路を過ぎて出戻りになり、子どもと別居を強いられても、怒りという姉のエネルギーは失われていないのだなと、浩介の謝罪も聞かず再度こちらへ向けられたつむじに混じった白髪を見ながら、なぜか頼もしかった。
ゆうちゃんは確か今年で十四歳になる。今でこそ本好きで元気な少年に育ったが、生まれたときは自分で呼吸ができず、しばらく入院していた。やっと退院してきたときには鼻にチューブをつけていて、いつも酸素ボンベといっしょに行動しなければならなかった。出産後里帰りをしてきた姉が、父や母に酸素ボンベの扱いを厳しく指南しながら、ベビーカーに酸素ボンベをとりつけて近所を散歩していたのを、浩介はぼんやりと思い出した。
「ゆうちゃん、来るの?」
あちこちに洗濯物をしまい終え、戻ってきた母があきらかに期待に満ちた声で言った。
「お母さんがよければもう明後日から来させようと思うんだけど」
「いいよいいよ、もちろん」
「よかった、もう孝史さんに明後日来させるようにメールしちゃってたから」
「夏休みで来るの?」
「コロナ疎開だよ、浩介といっしょ」
一瞬、東京の学校に通うゆうちゃんが高齢の母にコロナウイルスを感染させてしまう可能性に思い当たったが、浩介は何も言わないでいた。そこで自分が帰ってくるときにも同じ可能性があったこと、姉が、そのことを言い立てなかったことに気がついた。とん、とん、と姉が紙の束をそろえた。仕事が一段落したらしい。教え子たちの答案用紙でできた紙の束は、去年よりさらに少し薄くなったようだ。
このあたりの風景は昔とほとんど変わらないのに、人の数はどんどん減っている。浩介が子どもの頃は少し歩けば友達に行き会ったし、夜でも家々の明かりが森の道を照らしていた。いまも家々は同じ間隔で並んでいるが、明かりはすっかり消えているのだ。
ゆうちゃんはリュックサックひとつで影森駅にやってきた。荷物すくないねえ、と浩介が笑いかけると、パパがiPad買ってくれたんです、と笑顔を返してくれた。去年まではカバンに本をぱんぱんに詰め込んでいて、たしか、浩介に敬語も使わなかった。
「孝史さんは一緒じゃないの?」
「普通に、仕事です。ママはいつも急だから」
「あの人はねぇ、自分が世界の中心だから」
姉をこきおろすことで甥っ子との会話をはじめるのは、毎度のことだ。ゆうちゃんは丸い眼鏡の奥でくすっと困ったように笑い、ママ、元気ですかと聞いた。孝史さんと同じ笑い方だ。
鬼さんは元気いっぱいだよお、ゆうちゃんには甘いから来てくれて助かるよ、おじさんとばあちゃんをママから守ってね、と言うとゆうちゃんはまたふふふと字で書くように笑ってみせてくれた。中学生の男の子に対しては少し子ども扱いしすぎた口調かと思ったが、ゆうちゃんが嫌がるそぶりを見せないので、浩介は安心した。
ゆうちゃんはまた背がのびた。もう浩介の肩まで来ている。浩介の家系は母を除いてみなひょろりと細長い身体つきをしていて、家族で旅行などしていると時々、唯一小柄な母は見失われていたものだが、ゆうちゃんはどうやら、「ひょろひょろの血」をうけついだらしい。白く小さな顔、細い鼻梁は姉に瓜二つだ。姉よりも背がひくい孝史さんのことは、もう追い抜いたかもしれない。
後部座席に乗せて走り出すとゆうちゃんは、あそこのお蕎麦屋さんはまだあるんですねぇ、あの薬局もまだあった、といろいろなものが「まだある」ことにひとつひとつ感嘆し、懐かしいなあ、と浩介に聞こえるように言った。細くやわらかな声も、孝史さんに似ている。孝史さんにも会いたかったな、と浩介はひそかに義理の兄を懐かしんだ。
ゆうちゃんの親権は姉にあるが、ゆうちゃんが暮らすのは孝史さんの家だ。かつて姉も暮らしていたその家に、浩介は足を踏み入れたことはない。駅から徒歩10分以内にある都内の新築マンションと聞いたから、それなりの価格はするのだろう。結納の時の顔合わせで孝史さんに初めて会ったときにした、新しく清潔なものの匂いが、いつもゆうちゃんには染みついている。あのときの孝史さんは水色のワイシャツに紺のネクタイを締めていた。顔立ちが特別整っているわけではないが、きちんと洗練された雰囲気のあるそのいで立ちを、浩介は忘れることができない。その雰囲気は、元々容姿にめぐまれていた姉でも、逆立ちしたってまとえないものだということが、まだ少年の出口にさしかかる年齢だった浩介にも分かった。
一度も誰かが決めたルールを破ったことのないような、折り目ただしい孝史さんのふるまいに、「東京の人はやっぱり洗練されてますね」と言ったら、「安物しか買いませんよ」と服のことを褒めたと思われてしまった。孝史さん自身のことを言ったのだといつか機会があれば話したいと思っていたが、そういう機会は結局なかった。
デスマス調で街の風景を懐かしむゆうちゃんは、やっぱりもう孝史さんの子どもだなと浩介は思った。姉に似た容姿、孝史さんの立ち居振る舞い。ゆうちゃんは、何不自由なく育てられた、完璧な少年に見えた。あの日に孝史さんに感じたのと同じまぶしさを、ゆうちゃんはもう身につけていた。
「勉強のほうは、大丈夫そう?」
車通りのない交差点でもいちおうウインカーを出しながら、浩介は聞いてみた。
「学校ではリモート授業とかあんまりやってないんですけど、自分で勉強すれば良いかなって」
そうだよね、と浩介はうなずきながらハンドルを切る。小学生のとき、ゆうちゃんは肺炎をこじらせて入院した。ちょうど中学受験をするころだったから、姉はどうしたらゆうちゃんが回復して学校で勉強できるのか、医者につめより浩介に当たり散らしていたが、大人の心配をよそにゆうちゃんは病室のベッドで粛々と勉学に励み、見事全国でも有数の難関中学校に合格した。いちど入試問題を見せてもらったが、問題文を読解すること自体、浩介にはできなかった。こういう子には、学校はあってもなくても良いのだろうなと、質の良い脳味噌がつまっていそうなゆうちゃんの丸い後頭部のふくらみを、浩介はちらりと見やった。
ゆうちゃんはどうして、お母さんと暮らさないの。この子に会うたび、その問いかけは喉の奥につかえて、浩介の呼吸をほんの少し苦しくする。
ぱちぱちと砂利をはじきながら、車のタイヤは動きを止めた。玄関からゆうちゃんを出迎えた母、ゆうちゃんからすれば祖母は、あっつかったでしょう、と顔の中心にきゅっと皺をあつめてみせた。
おじさんはリモートで仕事してるんですか。三人で縁側に座り、西瓜をかじっていると、ゆうちゃんは入社5年目の営業マンのごとく落ち着ききった口調で、浩介に聞いてきた。そうなの結構忙しいよ、普通に朝9時から夜9時まで仕事してその間休みは1時間だけ、おれはいつも夕食の時間を休憩にしてるから、昼は仕事しながらパンかじってんの。ゆうちゃんみたいに賢かったらおれもこんなITドカタはやってないよ、と浩介はネットスラングで自分のSEという仕事を自嘲し、西瓜の種を吐き出した。
「でも、どてにんそくがたって元は立派な職人の呼称じゃないですか」
「どてにんそくがた」
「土手人足方。昔は普請のとき、建築より先に土地を埋め立ててならしていたじゃないですか。その埋め
立て地をつくる職人たちを土手人足といって、そこに敬称の方、がついたのが土手人足方ですよね。だから土方、なんてもともと敬称のニュアンスがありますよね」
じゃないですか、とか、よね、とか言われても、浩介はそんなことは初めて聞いた。
「フシンって?」
問いかけるとゆうちゃんはえっ、というように浩介の眉間あたりを見つめて静止し、えっと、工事、のことです、と恥ずかしそうに言った。
「ゆうちゃんはすっかり東京の人だねえ」
母が、皆の食べ終えた西瓜の皮をあつめながら笑った。それを聞いたゆうちゃんは、東京、と不思議そうにくりかえした。おれも東京なんだけど、と言おうとしたが、ちょうどそのとき西瓜の皮にたかる一匹の蟻に気づき、あ、蟻が、と言うと母が、そっと節ばった人差し指に蟻をすくいあげて、庭に降り立たせた。ゆうちゃんの白く細い指も、浩介や母の指と同じように、西瓜の汁で濡れている。
ゆうちゃんは無事来られたの、なんで父親はちゃんと連れてこないの、熱はないの計ったの、咳とかしてないんでしょうね、味覚は大丈夫なの暑いんだから何か飲ませたんでしょ、ああゆうちゃん、大丈夫だった?
浩介と母に対する問いかけなのか独り言なのか愚痴なのか分からない言葉をとめどなく発しながら、姉は玄関の引き戸を開け靴を脱ぎ、居間の戸をがらりと開けてゆうちゃんの姿をみとめ、その肩に手をかけて安否をたずねた。おじさんが迎えにきてくれたし、ぜんぜん大丈夫だったよ。ゆうちゃんは子どもに笑いかけるように優しく微笑んで、はきはきと答えた。姉が開け放した玄関の扉の向こうでは、薄暮にひたされた庭の草木が輪郭をかすませていて、その更に向こうには、だれもいない真っ暗な森の道がつづいていた。
ゆうちゃんが来てから姉は、仕事から帰ってすぐに台所に立つようになった。よく庭の野菜を天麩羅にして出してくる。1センチ幅に切ったゴーヤは、4枚ほどまとめてからりと揚げられる。
「天麩羅、おいしいね」
白い手をきちんと合わせていただきます、と言ってから、ゆうちゃんは天麩羅をつゆにひたしてひらりと口に運び、小さいがよく通る声でいつも必ず一度はおいしい、と言った。レンズ越しの目を細めると、まつげが櫛でとかせそうなほど長い。
料理、できないと思ってたのに。浩介はゆうちゃんと同じ顔なのに、ゆうちゃんとは全く異なる野生の子鹿のような姉を見遣りながら、ゴーヤの天麩羅をほおばった。めんつゆの甘みが、衣につつまれてまろやかになったゴーヤの苦みを優しくぼやかして、それでいてさっくりとした歯ごたえがある。食べたらすぐ仕事に戻らないといけないというのに、ついビールがほしくなる。流しっぱなしになったニュースは連日、東京の感染者が何百人かを伝えてくるが、このやわらかな食卓の明かりの下では、浩介にはそれがどこか遠い国の戦争のニュースのように感じられた。
明かりの下でゴーヤを噛みながら、浩介は田井中さんのことを思い出していた。ゴーヤというのは浩介にとって田井中さんだ。たぶん愛していた。来る日も来る日もアルバイトに精を出し、サークルにも部活にも入らなかった大学時代、田井中さんはなぜかいつも浩介と同じ授業を取っていて、しばしば浩介の隣に座った。すこし茶色くした髪に、ふんわりと香水の匂いがする今めいた女の子だったが、そう口数は多くなかった。時々いるのかいないのか分からないようなことがあり、小さな声でよく笑った。
就職活動をゼミの仲間と協力してすることになり、よくみんなで田井中さんの家に集まっては、履歴書の書き方や面接の受け答えについて勉強したものだ。「実家から送られてきてさあ、すごいあるんだよね」と田井中さんはキッチンに山積みになったゴーヤを見せて笑った。沖縄から上京した子で、二重のくっきりした目をしていた。
その日、田井中さんの家に行くと他にだれもおらず、二人きりで自己分析をすることになった。コースケくんはさ、と田井中さんの盛り上がった唇が動く様子を、浩介は今でもありありと思い出せる。あたしのこと、どう思う。えーっと、縁の下の力持ちっていう感じ、と答えると、そういう意味じゃないよと田井中さんは笑って、いきなり蠱惑的な目つきになった。唇の下に、田井中さんの首があり、首回りのゆるんだTシャツの下には、やわらかな胸が上下していた。冷房のない蒸し暑い部屋で、田井中さんが少し汗をかいていることに浩介は気がついた。暑さでぼんやりした頭で、浩介は、する? と田井中さんに聞いてみた。ジコブンセキ? と田井中さんの唇がまた動いた。
お前も昨日したの、ジコブンセキ。次の日大学に行くと田井中さんの家にいっしょにたむろしていた友人2人につめよられた。ああ、昨日田井中さんちで自己分析してたよ、なんでお前ら来なかったの。お前もかあ、おれら確かめるためにさ、わざと行かなかったんだよ、それで朝ゴーヤ食わされたでしょ。朝って、普通に自己分析について話し合って夕飯ご馳走になって帰ったよ。え、じゃあお前させてもらえなかったの、かっわいそう、ホントに自己分析しただけで終わったってこと、ばっかだなあ、でも見る目変わるよな、ああいう子だったんだな、それならそうともっと前に教えてくれればよかったのに、そしてお前ゴーヤだけはしっかり食べさせられたんだな、お前は何だった、え、おひたし? おれはチャンプルー、あいつは漬け物だったって、あの子ホントにゴーヤばっか食べてんのな、ゴーヤってそんなに採れるのかな。
それから数日すると、もう田井中さんの家にはだれも行かなくなった。浩介だけは、就職活動が終わるまで田井中さんの家に通った。就職氷河期と報じられる中で、高望みせず小さな会社に絞って就職活動をしていた浩介があっさり内定をもらった後も、なかなか内定がもらえない田井中さんの家に、浩介は通いつづけ、一度も、「ジコブンセキ」をすることはなかった。ある日田井中さんは、沖縄に帰る、と言った。何と言えば良いのか分からず浩介がただうなずくと、止めないんだね、と田井中さんは目に涙を浮かべた。だから、コースケ君も、もうここに来ないでね、と小さな声で言った。
沖縄出身だということを個性のひとつのように言っていた田井中さんが、自分と関わった人みんなにゴーヤを食べさせるのは、自分の存在を主張したいからなのかとずっと思っていたが、じっさいにゴーヤを育ててみてそんな深い意味はなかったのだと浩介には分かった。ゴーヤは、じっさい「そんなに採れる」のだ。食卓にはまいにちまいにちどこかにゴーヤが乗っている。それでもキッチンの野菜置き場には、その緑色のでこぼこが、いつもこんもりと積まれている。
「ゆうちゃんは、好きな子とかいないの」
14歳ならこういう話がいちばん距離をつめるのに適当だろうと決め込んで、浩介はゆうちゃんに聞いてみた。とたんにゆうちゃんの白い顔が少女のようにぱっと赤くなり、い、います、と漫画じみたつまり方で答えてくれた。同じクラスの子なの、部活が同じなのかな、やっぱり勉強ができる子なのかな。続けて問いかけてみたがゆうちゃんは、まあ、とか、ううん、とか言うだけで口を割らなかった。おじさんはいないんですか、そう聞き返されたらどうしようかと頭の中で考えていたのに、まったく会話にならずに拍子抜けしてしまった。
Zoomでの会議は間のとり方が難しくて苦手だが、1対1での打ち合わせは好きである。前々から孝史さんとよくスカイプで通話している姉を羨ましく思っていた浩介は、自分にも仕事相手とはいえ連絡を取り合うべき存在がいるということが何だか誇らしく、わざと姉が持ち帰り仕事をしている傍らでパソコンを広げたりした。
秩父にいるんですか、前から野菜とかよくくれましたもんね、と、こんな軽い雑談を、相手が挟んでくれることもある。ゴーヤを育ててみてるんですけどね、すごい勢いで、と浩介が続けようとしたときいきなり画面がブラックアウトした。
「ねえちゃん」
「何」
「Zoom切れた」
「だから何」
どうしてこういうとき、つい姉に呼びかけてしまうのだろうか。姉ちゃんじゃ分かんないよね、ていうかPC自体が切れたんだけど。だから何よ。電源長押ししても駄目だわこれ、え、なんでかな、いま打ち合わせ途中だったんだけど。だあかあらあ何。えこれどうやったらなおるのかな、明日までにまとめないといけない資料で聞きたいことあって打ち合わせしてたんだけど。
まくしたてる浩介の頭上に、ごん、とiPadが打ち下ろされた。
「うるせえな」
「これ、ゆうちゃんのでしょ」
「あの子本一冊も持ってきてなくて。聞いたらこれで読むって言ってたけど、なんか一回も使ってるところ見ないし大丈夫じゃないの」
「でも」
「こうやって、いつでもいくらでも何でも読める、ってなると読みたくなくなんのよねきっと。もう本なんか物好きしか読まないよ」
ゆうちゃんのプライバシーを主張しようとしたが、姉の興味は文化批評に移ってしまったようだ。それにしても、確かにこの前までここに来るとき、ゆうちゃんは必ず本を何冊も持ってきていたが、今回は読書する姿がまったく見られない。ちょっとした空き時間には、基本的にiPhoneかスイッチというゲーム機を眺めている。そういうゆうちゃんを見て浩介は、孝史さんの経済力に思いを馳せるだけだったのだが、考えてみればあれだけ本が好きだった子がいきなり読まなくなるというのは、ひとつの時代の終わりを象徴するようで寂しい気がした。
ホームボタンを押してみるとヴ、という小さな震動が親指に伝わり、ロックがかかっているかと思ったがあっけなくホーム画面が展開された。下の階で母とそらまめをむいているゆうちゃんが戻ってくる前に、Zoomをちょっとインストールしてまたすぐアンインストールすれば。そう一瞬思ったが、やはり思春期の男の子としては、時々この家に来たとき話す程度の叔父に自分の端末を触られるのは嫌だろうと思い直し、iPadをソファの上に戻そうとした。そのとき、「リュウイチさんがあなたのツイートに返信しました」と、SNSの通知がバナー位置に表示された。あっと思ったときには浩介は、その通知をタップしていた。もうずっと?年以上もSNSをやっている浩介の指は、このSNSアイコンの鳥の呼びかけには、瞬時に反応する本能が身についてしまっていたのだ。
『@sutemaru 捨丸きゅん美人だからなw いくら捨丸きゅん家系の顔しててもアラフォー爺はしんどいわ まさか少年しか愛せない系?』
えっ、と声に出た。姉のほうを振り返ると部屋に戻ったのかもうそこには居なかった。浩介は頭が真っ白なまま、返信先の「捨丸」のツイートをタップしていた。
『叔父さんに、好きな子いるか、ってきかれた 匂わせなんだが』
そのツイートは15いいねされていて、多いなと思ったらほとんどは特別な相手にだけツイートが見られるようになっている「鍵垢」で、プロフィールには「H校」とあった。おそらく「捨丸」ことゆうちゃんの実際の顔見知りだろう。「捨丸」のプロフィールにはこう書かれていた。
『H校在学中2。A組。母親は子を捨てて山に帰った山姥。たまに山で面会してます』
山、と浩介はこの土地を認識したことがなかった。琴平丘陵の隆起した地形には親しんできたものの、実際「山」と名のつく地面の盛り上がりは、このあたりにはないのだ。「捨丸」がこのあたりを「山」と呼ぶのはだから、実際の「山」を指していうのではなくてなにか彼の中にあるイメージなのだろう。
『ほんとなんでこの人、家族を捨てていきなり山に帰っちゃったんだろうって思うわ 何っもない』
『なんか毎日ゴーヤ食わされて死ぬ 沖縄かここは バカほど野菜とれる』
『おじさんってやっぱゲイなのかな 顔は俺とか母に似てるのに彼女なし結婚なし。しかも童貞っぽい ご飯のときとか熱い視線で見つめてきてこわいぴえん』
『コンビニまで車で15分。便利だね!』
『山奥すぎて娯楽ないから一生ゲームしてる 中学受験のときのがんばりやな捨丸きゅんは幻想なのだよママン あのときのぼくはもういないのだよママン』
『もうね廃村。こないだばあちゃん畑してたら出たー! とか言われて肝試しの集団逃げてったらしい』
『リモートワークとかいっておじさんも帰ってきてるんだけどこの人、この場所から逃げたんじゃないの 都合よくね?』
『まじで都会暮らし捨ててこんな秘境に骨うずめる気の母親がクレイジーすぎて 人もどんどん減ってるし母親死ぬ頃には誰もいないんじゃね 生きる場所、やっぱ都会しか勝たん』
『ど田舎生活スタート。独身で孤独死確定のおじさんが迎えに来た。この人距離近くてちょっと苦手なんだよね、寂しいのは分かるけど おとなこども、って感じ』
画面をスクロールしながら、浩介は全身の血がぐらぐらと煮えてくるのを感じた。感じながら、頭ではゆうちゃんがまだ生まれたばかりの頃、姉がこの家に里帰りしていたときの映像を思い返していた。まだ父も元気で、誰かがそばで見ていてやらないとすぐに泣いてしまうゆうちゃんを、代わりばんこで抱っこし、大学の夏休みで帰ってきていた浩介にも、当番が回ってくることがあった。まだ一人で座ることも立つことも何かを食べることも移動することも、なにもできないこの存在が、愛情だけで生かされていること、自分もかつてこうして、ここで、この家で、生かされ育てられてきたこと、そんなことをゆうちゃんのぷくぷくとやわらかな身体を抱きしめながら、あのとき浩介は思ったのだ。
自分が何に対して怒りを感じているのか、はっきりとは分からなかった。ゆうちゃんが姉を蔑んでいることか、この土地を嫌っていることか、それらすべての気持ちを偽ることで、浩介たち家族みんなを馬鹿にしていることか。そして浩介は、ゆうちゃんが姉との暮らしを選ばなかったのではなく、姉がゆうちゃんのいない暮らしを選んだのだということをはじめて知った。
結局、同僚との打ち合わせは携帯で電話をかけて事なきを得た。考えてみれば、単純に仕事の情報をやりとりするためには、べつに相手の顔を見ながら会話をする必要はない。この自粛生活の中で、リモート打ち合わせに自分が求めていたのは仕事のやりとりだけではなかったのだ。そういうことに気がついて、やはり自分は「寂しい」独身男なのか、と嫌気がさした。
それから、浩介はゆうちゃんに話しかけなくなった。話しかけると下品な想像でおとしめられるのではないかと怖かったし、「いい子」に取り繕うゆうちゃんが、心底気色悪かった。これがあの、水風船でできたような体で、母に父に浩介に、ミルクをもらっていた小さな赤ちゃんと同じ生き物なのだとは思えなかった。姉に似た白い肌も、ぬらりとしてまるで妖怪だ。
9月に入ると、あれだけのべつまくなしに採れまくっていたゴーヤも、だんだんと実らなくなった。ゴーヤ、生らなくなってきちゃったねえ、と畑の手入れを終えた母が言った。次は何植えるの? と夏休みの自由研究を何にするか聞いてきたときと同じ顔で母は浩介に聞いたが、浩介は、べつになにも、と答えただけだった。いったん胡瓜も茄子も寄せちゃうから、しばらくはケイトウしか残らないねえ。浩介は縁側から畑を眺めた。ケイトウって? ほら畑のすきまいっぱいに、赤いの生えてるでしょ。鶏のとさかみたいなの。あれが、ケイトウ。ああ、鶏頭、かあ。浩介は作物の間で頭をもたげる真っ赤な花々を見遣った。
「だって、まだ収束してないじゃない」
仕事を一段落させて浩介が、水を飲もうと居間の戸に手をかけると、姉がパソコンに訴えかけていた。姉の通話相手はいつも決まっている。孝史さんだ。居間のソファに座る姉の背中ごしに見える、ちいさな孝史さんは、あの日と似た水色のシャツを着ている。たぶん困った顔をしているのだろうがよく見えない。何と言っているのかも聞き取れない。孝史さんの上品な話し方や声が、浩介は好きだったが、今はその声が聞こえなくてよかった。今は孝史さんの上品さは、ゆうちゃんのそれと同種のものでしかないとしか思えない気がした。浩介は、機械にうとい姉が、孝史さんとこうしてお互いの顔が見える形で連絡を取るのも、やはり「寂しい」からなのか、とやるせなくなった。
「ゆうちゃんなら大丈夫。小学校の時だって病室でちゃんと勉強してたじゃない。それで絶対無理だと思ってた学校にちゃんと受かったじゃない」
姉の、どんなときでも無駄に大きな声は、背中ごしでもはっきりと浩介の耳に届く。
「勉強してるところ? あんまり見ないけど。部屋の中とかでやってるんでしょ」
「ゆうちゃんの学校が勉強厳しいところだなんて分かってる。でもゆうちゃんならちゃんとやれるよきっと、頑張り屋なんだから」
「もっと子どもを信じたら良いでしょ。自分が信用できないせいでゆうちゃんを危険にさらすの?」
「学校が再開してるのはもう安全だから、じゃないでしょ、そうせざるを得ないからでしょ」
「ゆうちゃんは違う。戻らざるを得なくなんてない。自分で何とかでき」
姉の言葉を遮って、孝史さんの声が大きく荒っぽくなったのが分かった。しばらく孝史さんは話し続けた。居間の入り口に立ち尽くす浩介の脚が少しつらくなってくるくらいに。姉は孝史さんが話す間、最初のうちは、でも、だって、と何か言葉を差し挟もうとしていたが、途中から何も言わなくなり、最後には叱られた子どものようにうなだれて、うん、うん、そうだね、と小さく言って、孝史さんの話が終わり、少しの沈黙があった後でこう言った。
「確かにね。私がゆうちゃんをここに引き留めるのは矛盾してる。勝手にこっちに戻ってきたんだものね、自分の親のために。自分の生まれ育った家のために。親権をこっちにしてるのだって、孝史さんからしたら自己満足につきあってくれてるっていう感じだよね。普段面倒を見てるのは孝史さんだもの。きっと孝史さんには私の知らないゆうちゃんのことも色々分かるんだよね。もっとここに居てほしいって、ゆうちゃんのためのつもりだった。でも、そうかもしれない。私が居てほしいってだけなのかもしれない。孝史さんと別れてこっちに戻ったのだって同じ。私が勝手に戻りたかっただけなのかもしれない。お母さんだってそうしてほしいなんて一言も言ってないもん。ゆうちゃんが勉強してるところ、連れてきてから一度も見てない。自分の信じたい姿しか、見てなかったのかもしれない。変わったゆうちゃんをちゃんと、直視できてなかったのかもしれない」
姉の声がかすれていくのを、浩介はどうすることもできずにただ見ていた。
「ゆうちゃんを、かえします」
姉が最後にそう言うと、孝史さんは短く何か二言、三言だけ言って、画面から消えた。姉は暗い画面の前に座ったまま、肩をふるわせて泣いていた。ひっ、ひっ、としゃくりあげる声は、森に囲まれたこの小さな家の中で、浩介以外のだれに聞こえることもなく、宙をさまよっていた。
ゆうちゃんが帰る前の日、母はいつもより長く畑にいた。姉は変わらず仕事に出かけ、浩介はゆうちゃんと家の中でふたりになった。浩介が仕事をしている自分の部屋からときどき居間の様子を覗くと、ゆうちゃんは相変わらずスマホを片手にだらりとソファに座り、ときどき寝そべったりしていた。
「ゆうちゃん」
浩介は何日かぶりにゆうちゃんに話しかけてみた。なんとなく、もう会えないような気がしたのだ。また何かネットで言われるかもしれない。でも黙っていられなかった。あの日の姉の震える肩が、浩介の脳裏に焼き付いていた。
「勉強、すすんだの」
ゆうちゃんは浩介に振り向くと、表情のない目で言った。
「おじさんは、いつ戻るんですか」
戻る。東京とは自分にとって戻る場所なのだろうか。戻るべき場所。つまり、自分が最後にいるべき場所なのだろうか。いや、そういう場所は浩介にとってここの、この家でしかないのではないか。父が死に、母が暮らし、姉が戻って来、野菜がどんどん生る、この家でしか。
「戻るのかな。なんだかこうやって暮らしてみると、東京にいる必要なんて特にない気がしてね」
「でも今は特殊な状況じゃないですか」
「だけど、色んな会社がリモートワークを常態化しようとしてるみたいだし、自分の会社もそうならないかなって思ってるんだ」
「そうならないかなって思ってるだけなんですか」
ゆうちゃんが小さく笑いながら言った。眼鏡が反射して、長い睫の目が見えない。
「そうなるでしょ、きっと。もしそうなったらここでずっと暮らすのもありかなって思ってるんだ」
「こっちで結婚して子どもつくって、その子にこの家を継がせるんですか」
継ぐってほどたいそうな家じゃないけど、と言いながら浩介は、こんなに幼い少年が「子どもをつくる」とか「家を継ぐ」とか考えていることに驚いた。でも、そんなのは幼いからこそだ、むしろ幼さの表出でしかないと、浩介は気持ちを持ち直した。
「結婚とか子どもとかはね、べつにそれだけが全てじゃないから」
「全てじゃなくても大事なことじゃないですか」
「これからの時代は、そういうの求めない人が増えていくんじゃないかなって思ってるんだ」
「また、『ないかなって思ってる』ですか、そうならなかったらどうするんですか」
浩介の頭の中に、多様な生き方、とか、それぞれの価値観、とか、新しい生活、とかいう言葉がばらばらに渦巻いた。しかしそれらをつなぎあわせ、言い返すことができないまま、浩介は目の前の少年をただ睨みつけた。
「おじさん、もっと自分がどうしたいのか、はっきり決めたほうが良いですよ」
ゆうちゃんの顔は、やはり孝史さんに似ているのかもしれないと浩介は思った。ひりひりと激しい反発を覚えながらも、どこかでだれかにこんな風に諭されるのを、自分は待っていたのかもしれないと浩介は思った。
「『こうならないかな』って都合よく考えててもね、そうはならないことの方が多いです。今の時代は、なんていうけど時代が変われば変わるだけ自分に都合が良くなるわけじゃないです。そういう進歩史観ってなんの根拠もないですよね。なんとなくここに戻る状況にならないかなって思ってるんですか。そんな無責任な考え方ないと、僕は思いますよ。無責任ってどういうことか分かりますか。ぼんやりと何かを期待するだけで、何も行動しないことですよ」
赤ちゃんだったゆうちゃんを裸にして、小さなお風呂に入れたとき、自分もこうしてただ、生まれてきたのだと思った。何をするでもなく、ただそこにいるだけだったのだと。ただそこにいるだけで、何か大きなものに、抱きしめられるように生きていけるのだと。
「でも、こうなったらこうしたいって、考えるのは自由だし、大事じゃない。ゆうちゃんにはまだ分からないと思うけど、実際、自分の意志なんかよりもっと大きなものがあると思うんだよ。そういうものの前では自分の意志なんてあってもなくても同じなんじゃないかな。そういう大きなものの枠の中でしか、人間は考えられないし行動もできないよ。それは無責任とは違うと思うよ」
ゆうちゃんは納得できないという顔で浩介を見上げていた。大人に大人としての態度を求める子どもの目だった。その目に射ぬかれながら、そういう風にしかできない、という気持ちと、そんなことでは駄目だ、という気持ちが浩介の中で激しくせめぎあっていた。
「おれはたださ」
浩介はつづけた。
「社会の流れでおじさんがここに戻れたら、お母さんも、きっとゆうちゃんの家に戻るよって、言おうとしただけ」
ゆうちゃんの目つきが、はっきりと浩介をにらみつけるようになり、蔑むようになり、哀れむようになり、そのまま逸らされた。縁側の向こうに広がる畑では、残暑の日が容赦なく照りつけ、母が踊るようにして野菜のつるをひっぱり、あちらこちらへ移動させているのが見えた。まだ少し実っているゴーヤの茎も、畑から抜かれ、他の野菜とまとめられ、あとの土は綺麗にならされていった。その母の踊りは華麗で完成されていて、浩介が何かを差し挟むすきもなさそうだった。
ゆうちゃんのことは姉が駅まで送っていった。浩介とゆうちゃんの関係が悪くなっていることは、もうだれの目にも明らかだったのだ。やって来たときと同じように荷物を小さくまとめたゆうちゃんは、「お世話になりました」と礼儀正しく言った。浩介は返事もかえさずに、居間のソファに座ったままスマホをいじっていた。また来てね、と母がにこやかに答えた。
姉の車がゆうちゃんを乗せて出て行ったのを音で確認すると、浩介はSNSの検索窓に「捨丸」と入れてゆうちゃんを探した。昨日の言い合いが、どんな風に歪曲されているのか見てやろうと思ったのだ。しかし「捨丸」のつぶやきは、浩介が偶然そのアカウントを見てしまった日から更新されておらず、何度画面を更新しても新しいつぶやきが現れることはなかった。
ひっこみがつかなくなった浩介は、「捨丸」が保存した他者のつぶやき、「いいね」欄を見てみようと指をすすめた。独身男をおとしめるつぶやきや、田舎暮らしを馬鹿にするつぶやきが、保存されているにちがいない。
『田舎で暮らす人に求められる25のスキル』
『人口減少の町で働くには』
『どこでも生きていける資格10選』
『畑のお手入れ~基礎・基本~』
ゆうちゃんの「いいね」欄はほとんどがブログ記事だった。田舎暮らしをする人の生の声や、田舎で生きていくためには何が必要かをまとめたものばかりだ。その中に、武甲山からの美しい眺めや、不動滝、大血川渓谷の写真をつぶやいたものがいくつか混じっていた。
ゆうちゃん、と声に出して浩介は立ち上がり、縁側のサッシを開いた。秋の日を浴びた鶏頭の真っ赤な花だけが、畑の上にいくつも屹立して天をあおいでいた。
お母さん、ゆうちゃんが、と、浩介は、ゆうちゃんの全てを話したくなって母を探しまわった。しかし母は台所にも、便所にも、風呂場にもどこにもいなかった。縁側からサンダルを履いて畑に出、お母さん、お母さん、と浩介は子どものように呼んだ。しかしその声は誰もいない畑に染みいるだけで、母はどこにもいなかった。どうして、おれを産んだの。姿の見えない母に、浩介は問いかけた。そんなのは野菜が生るようなものでしょう。母はからりと笑って答えるだけだった。
浩介は土を踏みしめて畑の真ん中に立ち、鶏頭の真っ赤な花を手にとった。
詩部門準賞
家族=運動着
鈴木憲夫(67)=すずき・のりお=鳩山町
あれはおまえが小学5年生のときの運動会
かあさんが死んだ翌年のことだ
明日が運動会という前の日に
おまえの黄ばんだ運動着を
おとうさんは洗濯板にこすりつけ
何度も何度も洗ったけれど
その黄ばんだ運動着はなかなか白くならなかった
運動会の日
青い空の下で
元気に動きまわる大勢の子どもたちの中から
私はすぐにおまえを探すことができたよ
白いまぶしい運動着の中に
ポツリとひとりだけ黄ばんだ
運動着を着ていたおまえ
でもおまえは輝いていた
青い空も
白い運動着も
黄ばんだ運動着も
みなカゲロウのように
ひとつになって私の目に映ったとき
私はたしかになにかに祈っていた
かあさんが
私と一緒に見ているような気がした
言の葉
一橋省吾(35)=いちはし・しょうご=さいたま市
かすかな風に
ゆらぐ葉がきしみ
底知れぬ劣等感が交差してゆく
他ならぬわたしは
音の変化に戸惑いながら、
隠していた障がいを囁かれてしまう。
息子サンハ右耳ガ聴コエナイヨウデス。
右耳ガ失聴シテマス。
まだ若い女教師があえて探るように
わたしのゐる前で母につたえる
ちいさな心臓が唐突に渇いて
うっすらと血管を透かしてゆく
わたしの異物は喉奥で悲鳴をあげて
奥深い怖れが芽生えてしまう
悪性髄膜炎の後遺症である
母の不安げな表情が忘れられず
―ゴメンナサイ。
病院帰りの車内で母にいう
ドウシテ 謝ルノ?
母は強い口調で訊いてくる
外に目をやると、
桜の花びらが身勝手に内情を背負う。
凡人ノ三倍カラ四倍ハ努力スルノヨ、
ソウスレバ同ジ処ニ必ズ辿リ着ケルノ。
―ゴメンナサイ。
わたしは涙目で俯いてしまう
小学生のわたしを強く抱いて母がいう
約束シテホシイ 右耳ガ難聴ノ子トシテ
恥ズカシクナイ生キ方ヲシテ 家族ト共ニ
最高ノ幸セヲ?ンデホシイ コレハ母サンカラノ大切ナオ願イデス。
母の聲が耳に届いて、
涙にできたから。
美しい空のはかなさに
劣等感が少しづつ
剥がれてゆく
短歌部門正賞
二重の虹
えんどうけいこ(47)=狭山市
蝉が鳴き始めてやっと赦される眠る努力はもう放棄する
ずれているボックスシーツおとなしくしていることもけっこうつらい
一晩中静かに仕事し続ける炊飯ジャーは心臓に似て
窓という窓をあけよう新しい光と風は皆に平等
三日月の形に眉を描いている口に出さない祈りがあって
夏はいい玄関を出る間際までキャミソール一枚でいられる
ラッシュ時の電車が運ぶ人間はラオコーン像にどこか似ている
蝸牛から脳へ伝わる初音ミク まもなく人はAIに負ける
手のひらにある胃のツボを押しながら聞く今月の売上目標
誰だってできる仕事をするためにカフェインというガソリンが要る
勧めればその通り買うお客さま素直な人は幸せになる
香水がきつい上司に気に入られときどきお菓子をもらったりする
夕立をゲリラ豪雨と呼ぶようになりバブル期を思い出せない
自販機の前で迷っていたせいで二重の虹を見逃してしまう
花を買うような暮らしを特売のデルフィニウムを買ってはじめる
ゴキブリにヘアスプレーを吹きつけて中途半端に弱らせている
何だってできる 夜じゅう騒いだり猫を飼ったり家を売ったり
何ひとつできない PowerPointも英語もピアノも子を為すことも
衣食住ととのえている 最後にはすべて大地へ還るとしても
森の香を闇に放して目を瞑る まだ人生に期待している
俳句部門準賞
鏡傾ける
箱森裕美(40)=はこもり・ひろみ=川口市
折り紙の端を合はせて折り朧
痛くありませんか溶けゆく春の雪
きさらぎの卵割る音混ぜる音
下心閉ぢ込めてゐる桜餅
感想の短きメール亀の鳴く
ストローをぷつりと昏き五月来る
手握つてをりひなげしへ変はるまで
飛行機の山へ隠れて豆御飯
許してしまふ打水のあとにまた
百日紅奪ふとも奪はれるとも
八月や眼鏡をたたむとき軋む
まなうらに秋の蛍の永らへる
目覚むれど畳に桃の香りけり
くすくすと見せ合ふ日記小鳥来る
身の内に広がる洞や金木犀
憎しみはあらずマフラー編みにけり
寒泳の息継ぎのたび告白す
白鳥の空背負ひたる震へかな
鮟鱇や言へば崩るることばかり
春遠からじ背表紙の銀の箔
結び
浅野都(77)=あさの・みやこ=川口市
裸木に任す地のこと天のこと
マジックのとある結び目しゃぼん玉
草結びなどもしたわね苜蓿
結願の暁ふわっと若葉の香
結ひ上げし髪に飾りぬ藤の花 初夏だ風流傘のお通りだ
初めての結びの一番青嵐
結ばれるまでのいきさつ祭の夜
八月十五日の口一文字
まんじゅしゃげ結跏趺坐など程遠し
結界の是非に及ばず青葡萄
白い秋敬具で結ぶ別れ文
明日は実を結ぶであらう月明り
秋灯下完結編に差しかかる
金品にあらず結納温め酒
文化の日みせる結び目みせぬ紐
開手打つ神有月に雲のなし
葉脈が主役勤労感謝の日
初稽古帯しめなほす柔道家
すんなりと溶け込むことも六つの花