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埼玉新聞80年の歩み

昭和20年代の社屋

創刊80年 郷土の歴史とともに

埼玉県唯一の県紙として約2万9000もの紙齢を数えてきた『埼玉新聞』は2024年10月16日をもって、創刊80周年を迎えた。埼玉県の新聞史を振り返る時、明治─大正─昭和という文字通り激動の時代にあって、地域紙の発行継続は困難を極めた。戦時統制下の「一県一紙体制」など紆余曲折を経て、前身となる社団法人埼玉新聞社が県内から広く出資を求めて発足。

幾多の試練を乗り越えて1944年10月16日、タブロイド判2ページの第7期『埼玉新聞』第1号を県下に送り出した。その記憶すべき日は、第2次世界大戦で日本がポツダム宣言を受諾、終戦の詔勅が発せられる約10カ月前のことであった。その後の本紙の歩みは私たちの郷土・埼玉県の歴史とほぼ軌を一にする。戦後の県土復興はこの国が経験した経済成長の荒波とともにあり、埼玉県は「農業県」から「工業・産業県」へと変貌した。急激な人口増加は県勢に新たな活力を与える一方で、ベッドタウン化に伴う「埼玉都民」なる皮肉な言葉をも生み、各地で進んだ都市化はさまざまなひずみをもたらした。そうした政治・経済・社会現象は、日々休むことなく発行し続けてきた紙面でくまなく追うことができる。
「埼玉新聞 五十年史」

激動の30年を振り返る社史

「県民とともに くらしに役立つ」情報を長年発信してきた本紙は1994年、創刊50周年記念事業の一つとして『埼玉新聞 五十年史』を刊行した。そのなかで〈あくまでも地域ニュースにこだわり、県民のためになる新聞づくりを目指してきた。これからも次の区切りとなる100周年に向け県紙としての役割と責務を果たしていく〉と高らかにうたっている。それから早30年の歳月が流れた。

インターネット技術の発展とソーシャル・ネットワーキング・サービスの大衆化は国内外の事象を劇的に変え、新聞をはじめとするメディアを取り巻く環境も様変わりした。埼玉県においても、2000年に「さいたま新都心」が本格始動するなど街の姿は大きく変わり、人口は全国5番目の734万人(2021年度国勢調査)を超えるまでになった。こうした地域の実情を知る私たち県紙が平成初期から令和に至る社会動向を踏まえ、改めてこの30年間を「社史」として振り返ることは、「県民史」に新たな断面を加えることと重なり、その意義は少なからずあるのではないかと確信するものである。
中央紙の販売攻勢「地域密着」報道で対抗

中央紙の販売攻勢「地域密着」報道で対抗

『埼玉新聞』の題字を守る社歴は苦難と波乱に満ち満ちている。そもそも戦前から中央紙が地方版(県版)を拡充し、全国的に規模を拡大していった新聞業界の歴史がある。前述した「一県一紙体制」は、政府が戦時における言論統制を企図したものであったが、統合後の各県紙の経営基盤を強固にするという副産物をもたらした。

ただ、東京都の北部に隣接する埼玉県にあっては、「首都圏増紙攻勢」を掲げる中央紙による草刈場の様相を呈したのも事実である。新聞の拡張員を組織し、定期購読契約を獲得するための拡材(拡張営業材料)に金の糸目をつけない中央紙に対して、専売店を持たない『埼玉新聞』は資金とマンパワーに限りがあり、同じ土俵で戦っては勝ち目がない。まさに弱肉強食の時代であった。本紙としては地域密着の細かな情報をすくい上げて深掘りした記事を提供することで、購読者に存在意義をアピールするほかなかった。
タブロイド判2ページでスタートした埼玉新聞の創刊号(1944年10月16日付)

「新聞人」竹井博友の経営参画

社団法人として発足した埼玉新聞だったが、昭和20年代後半には経営的に行き詰まり、埼玉県政界・財界の重鎮から「株式会社への改組」が進言されていた。1955年、全国の新聞社・通信社・放送各社で組織する社団法人日本新聞協会の協力も仰ぎ、県内の経営者から埼玉新聞社への出資を募った。

この年の6月、無事に創立総会が開かれ、初代の代表取締役社長には旧大宮市(現さいたま市北区)宮原出身で、日本交通株式会社社長であった川鍋秋藏が就いた。経営体質の強化を狙ったものの、川鍋は「経営は分かるが、新聞はよく分からん」と新聞業界に明るい外部人材を探した。そうして白羽の矢が立ったのが、「三大紙」の一角を占める読売新聞社(東京)出身の竹井博友であった。埼玉新聞社の歴史を語るうえで、欠かせない重要人物である。駆け出しの東京社会部記者から大阪読売新聞社常務にまで出世した竹井は、埼玉新聞社では代表取締役専務(編集・営業・工務局長)として入社し、川鍋体制を支えた。2年後の1957年度には晴れて代表取締役社長に就任した。当時36歳の竹井はトップを8年間務め、その後も長きにわたって代表取締役社主、代表取締役会長などの重職を歴任。同時に埼玉新聞社外でも、読売不動産社長、中部読売新聞社社長を務めた。さらに1958年に不動産会社「地産」を設立し、1964年に東洋観光興業を買収。地産トーカン社長に就くなど、わが国の企業合併・買収(M&A)の先駆者と目され、一代で30数社もの地産グループを築きあげた。1975年7月26日の臨時株主総会で、埼玉新聞と埼新印刷の両社が8月1日付で合併することを決定した。2年前の第一次オイルショックに端を発した不況が長引き、小川町などに整備したボウリング場などの関連事業が行き詰まり、労使紛争も激化していた。待ったなしの再建のために、代表取締役社長には、埼玉新聞社員時代に竹井に高く評価され地産ストアー専務に抜擢されていた高橋一郎を起用した。監査役に長男の竹井博史を就け、自身は社主や相談役のポストに一時期収まった。しかし「新聞人」としての矜恃を持つ竹井は1984年度から代表取締役会長に復帰し、竹井─高橋体制が始まった。社員総出で取り組む増紙月間には、チサンホテルなどグループ企業社員を派遣し、他紙の拡張団さながらの戸別訪問によるローラー作戦で、多数の定期購読者獲得にこぎつけたという逸話も残る。さらに地産が経営するゴルフ場が河川の冠水で利用できなくなると、埼玉新聞社員がゴルフコースにたまった土砂を除去する作業を行うこともあり、地産と埼玉新聞社の社員の相互支援関係は長く続いたのである。全国的には新聞宅配購読の伸び率は依然、右肩上がりであった。信頼の置ける正確な情報と速報・記録性において、新聞は自他ともに「マスコミの王者」を自認しており、新聞各社への就職希望者は多かった。埼玉新聞社へも、記者志望者が多数入社し、しばらく経験を積んでから中央紙に再挑戦する者も少なからず在籍していた。
昭和から平成へ 平成元年の紙面から

昭和から平成へ 竹井博友の「引責」辞任

1989年1月7日朝、昭和天皇が崩御され、元号が「平成」に変わった。翌2月には「天才」漫画家の手塚治虫が亡くなり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡で発掘された大規模環濠集落が話題になった。埼玉県内では前年から行方不明だった三郷市の女子高生が東京の不良少年グループに拉致・監禁・暴行のうえ、コンクリート詰めされるという凄惨な事件が3月に発覚、『週刊文春』が加害少年を実名報道するなど少年法に関して問題提起がなされた。さらに竹下登政権によって4月1日から消費税3%が導入された。

海外に目を向ければ、ソ連が2月にアフガニスタン撤退を完了、中国では6月に天安門事件が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊し、共産圏の崩壊と冷戦の終焉へとつながってゆく──。こうした時代背景のなか、埼玉新聞社内で「オーナー」と崇められていた竹井博友が突如、代表取締役会長の職を辞する意向を示したのは1991年2月のことであった。同時期、地産グループの役職も全て辞任した。1988年まで2年分の株売却益の申告漏れに関連しての引責とされ、その4カ月後には東京地検特捜部によって所得税法違反(脱税)容疑で逮捕される事態に陥ってしまう。起訴事実によると、竹井は仕手集団「光進」による仕手戦に便乗した巨額株取引で、個人としては史上最高の約34億円を脱税した罪で、翌1992年4月の東京地裁判決で懲役4年の実刑判決が言い渡された(一審確定)。地産グループ傘下企業の動揺は激しく、埼玉新聞社とて例外ではなかった。しかし記者ら一般社員がオーナーの姿に接するのは正月の賀詞交換会の時ぐらいであり、「雲の上の遠い存在」であった。世間の風評は厳しく、購読者からの問い合わせも相次いだ。経営陣が懸命に対応策を練る一方で、社員たちはあくまで冷静に毎朝の新聞が届くのを待っていてくれる読者のために、日々の取材と紙面制作、営業活動に励んだのである。
旧浦和市岸町の旧社屋でのiモード配信スタッフ

押し寄せる技術革新の波

丸山晃新社長の下、紙面充実へこの時期、1970年代に始まったコンピューターで新聞を作るという技術革新の波は中央紙から地方紙にまで徐々に押し寄せていた。手作業で鋳造活字を拾っていた時代は遠くなった。編集局では1993年に記者ワープロを導入したのを皮切りに、原稿用紙と鉛筆離れが進んでゆく。

1997年には時代の趨勢に乗ってインターネット事業に取り組むためにパソコン3台を新規購入し、開設した自社ホームページで記事の掲載をスタートさせた。NTTドコモからも携帯電話を8台更新するなど、本社内の設備投資に追われた。輪転機増設や組版新システムの導入も待ったなしであった。1990年初頭から2000年代に至る10年間の政治・経済・社会情勢の激動ぶりについては改めて記すまでもないであろう。「ミレニアム」と呼ばれた2000年の元日付で、取締役副社長だった丸山晃が高橋一郎の後を継いで代表取締役社長に昇格した。丸山は東京支社時代、国会を担当して政界人脈を培っていた。その後は広告を担当する企画部長、業務局長などを歴任し、営業の最前線で若手をけん引していた。技術革新は日進月歩であり、インターネットの登場で情報伝達スピードは一層加速していった。この年の6月、NTTドコモによる「iモード」ビジネスへ参入することを決定し、同社による企画広告の定期出稿に結びつけた。さらに編集、業務(広告)両局で継続して取り組んだ浦和、大宮、与野旧3市の政令指定都市移行と新都心づくりの各種キャンペーン、広告企画特集なども大きな反響を呼び、『埼玉新聞』の紙価を高め、営業活動の弾みとなった。紙面でも、「さいたま市」誕生を機に「さいたま市面」「生活情報面」を新設した。
最後の発行となった『埼玉年鑑』2007年版

「脱オーナー経営」を宣言

「2003年7月には、11年間続いた土屋義彦知事(全国知事会長=当時)が政治資金問題で引責辞任に追い込まれ、翌8月末には上田清司新知事が誕生する。地元紙として連日、中央紙に負けられない紙面作りを展開していた同時期、社内では別の懸案事項に直面していた。

丸山社長が4月の取締役会で「経営改善3カ年計画」の方針を表明したのである。2004年10月の創刊60周年も迫っており、悠長に構えてはいられなかった。同じ年の1月末をもって代表取締役社主を務めていた竹井博史が辞任しており、丸山は7月の取締役会で本格的な増資目標とともに、「脱オーナー経営」に関するスケジュール案を提示したのであった。前年12月までに、地産は保有する埼玉新聞社の株を全て手放していた。それを見届けるかのように、長年「オーナー」として君臨した竹井博友(竹井心泉と改名)が7月29日に病気のため死去した。享年82。波乱の生涯であった。今も竹井の筆による「幹部十訓」が社長室に掛かっているが、その功罪を知る社員は少なくなった。
問題の記事を削除し、空白となった縮刷版

「三つの経営課題」掲げる 「虚偽」報道をお詫び

オーナー家がなくなり、社長の丸山は矢継ぎ早に改革を断行していった。2004年4月に読者増委員会を設置し、7月からオール20ページ、10月から4面カラー化を柱とする計画を打ち出した。さらに年末には「三つの経営課題」として「①印刷の外注化②新社屋移転③新組版システムの導入」を提示し、社内議論を深めていった。

2005年に入ると、当時の小泉純一郎政権が推し進めていた改革「官から民へ」の一環として、2003年9月の地方自治法改正で施行された指定管理者制度への新規参入を決定。さらなる利益上積みを目指して、毎週月曜日の朝から役員と営業責任者の会議を開くことにした。1967年に竣工した旧浦和市岸町の本社も手狭になり、老朽化も進んだことなどから、本社移転先をどうするかも経営課題に挙がった。追い風ばかりではなかった。2002年には、フリーペーパー『埼玉新聞の生活情報紙Sai 彩』の発行を巡って社内で紆余曲折があり、「発刊中止」の責任を取って、丸山は給与全額(3月分)を補填する制裁を自らに科した。また、同じ年に国会で審議していた個人情報保護法案などを巡り、「表現の自由」を侵し政府が介入する余地を含んでいるとして、埼玉県選出の国会議員らに廃案を求める要請書を、中根憲一テレビ埼玉社長(当時)とともに送ったものの実らず、同法は成立。結果的に長年刊行してきた『埼玉年鑑』人名録は2005年に発行中止に追い込まれ、記録編と名簿編も部数減が重なって『2007年版』を最後に休刊となった。さらに紙面でも痛恨のミスを犯し、2005年11月3日付朝刊には、丸山社長の編集主幹を解くなどの制裁人事が載った。10月22日付「杉戸で町民体育祭」を報じた記事で、20代の担当記者が雨天のため中止になったにもかかわらず確認を怠り、事前資料を基に記事を書いたうえ、前年の資料写真を掲載し、参加者の発言も捏造していた。これを受けて中央紙は〈虚偽〉と報じた。本社は紙面で〈こうしたことはあってはならないことであり、あらためて関係者の皆さまにおわびするとともに、深く反省し今後このようなことがないよう読者の皆さまとの信頼回復に向け全力を尽くしてまいります〉と詫び、編集局員一丸となって再発防止を誓った。
さいたま市北区吉野町へ移転した当時の埼玉新聞新本社

新本社 さいたま市北区吉野町へ移転

本紙「新題字」にリニューアル2007年1月30日の臨時株主総会で、本社の移転先として、さいたま市北区吉野町を選定したことが報告された。

翌2008年3月21日の臨時株主総会で本社移転議案を可決、7月に社屋完成式典祝賀会を開催した。この年、本紙「新題字」も導入し、紙面も12段組、地域面・経済面を中心に刷新した。丸山社長は11月に新会社さいたまPRセンターを設立し、新たなフリーペーパーの発刊計画を示すと同時に、将来的な「制作センターの全面外注化」の検討を表明した。
本県由来のアニメや漫画を取り上げたサブカル紙面「月刊サイタマニア」は好評を博した

「タウン記者」制度を導入 好評得た『らき☆すた』

企画増収増益と経費削減の両立は喫緊の課題であった。2009年に入ると丸山社長は、60 歳以上の読者を「コア読者」と想定する紙面制作をはじめ、広告原稿の内製化など「1億円増収プラン」達成の指示を出した。さらに「地域密着」を標榜する本紙として初めての試みとなる「タウン記者」制度を導入し、市民の目線から身近なニュース、話題を報じてもらうために3人を採用した。

また紙面以外のユニークな企画としては、2006年11月に川口市で開催した広告特集連動型の映画上映会『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督、渡辺謙、二宮和也ら出演)が読者から大好評で、試写会と連動した同様の主催事業が続いた。スポーツニッポン新聞社の映画記者出身で、本紙でも長年健筆を振るう脇田巧彦特別顧問の協力を得て、2009年6月には、往年の日活映画大スターである小林旭、浅丘ルリ子によるトークショーを開催した。創刊65周年企画として、幸手市出身の人気漫画家・美水かがみの作品『らき☆すた』を中心としたイベントを開催し、新たな『埼玉新聞』ファン拡大にも注力した。
福島県双葉町から避難しさいたま、スーパーアリーナに入る人たち= 2011年3月19日

東日本大震災 被災者に寄り添う

2010年6月25日の株主総会で、専務取締役の小川秀樹が代表取締役社長に昇格した。当時48歳の小川は政経部長や業務局長などを歴任し、取締役事業開発局長時代には指定管理者制度参入に道筋を付けるなど、10年間にわたった丸山体制を支えてきた。県政など行政担当記者の経験が長かった小川は紙面改革の一つとして、さいたま政令市と川口、熊谷、川越、春日部の中核4市等の「市長動静」欄を拡充することを打ち出し、現在では県紙としての欠かせない売り物に育っている。

翌2011年3月11日午後2時46分、宮城県三陸沖で発生した東日本大震災・東京電力福島第1原発事故は、埼玉県内にも甚大な被害と影響を及ぼした。市街地には帰宅困難者があふれ、初の計画停電や放射能汚染測定も実施された。福島県双葉町民ら2200人以上が「さいたまスーパーアリーナ」に集団避難する事態となり、地元紙の責務として朝刊100部を連日にわたって無償提供した。記者・社員の安全確保に努める一方で、本社自体が計画停電の影響を受けて降版時間の大幅繰り上げや輸送トラックの給油確保など綱渡りの紙面制作が続いたが、被災者をはじめとする読者への的確な生活安全情報を伝えるという強い信念を持って難事を乗り切った。埼玉新聞社では、部数増とスポンサー冠事業の発展を目指して従来から市民スポーツ、プロスポーツ部門の報道・営業・販売強化を継続してきたこれを一層強化するために、2018年4月から販売局内に市民スポーツ室を設け、より細かな情報をすくい取り、読者密着の紙面スタイルを確立した。2019年には、埼玉県を舞台に漫画、映画が大ヒットした『翔んで埼玉』(魔夜峰央原作)のラッピング広告で包んだ新聞を企画発行し、県内外で話題になった。
「令和」の号外紙面

「令和」新時代 「新型コロナ」報道に注力

「令和」新時代 「新型コロナ」報道に注力2019年5月1日、皇太子徳仁親王が新しい天皇陛下に即位され、元号は平成から「令和」に切り替わった。生前退位は江戸時代の光格天皇以来202年ぶりで、譲位された陛下(明仁さま)は上皇に、美智子さまは上皇后になられた。当時の菅義偉官房長官が発表した新元号については、本紙も即応体制で臨み、号外紙面を発行した。

令和最初の定時株主総会で、新たな代表取締役社長に専務取締役の関根正昌が昇格した。蓮田市出身で大学卒業後に東京の音楽専門出版社リットーミュージックで編集者を経験し、1985年、27歳で埼玉新聞社に中途入社した「変わり種」である。販売局員を皮切りに広告、総務、経営企画、編集局長とあらゆる職種を経験。社内外の事情にも通じ、難局にある新聞業界に対応するにふさわしい人材と周囲から目されていた。この年の年末、中国・武漢で最初の感染者が報告されて以降、わずか数カ月のうちに「パンデミック」と呼ばれる世界的流行となった。新型コロナウイルスの災禍である。日本でも2020年1月に最初の感染者が確認されると、瞬く間に感染者が急増し、医療・行政機関などが対応に追われ、夏に予定された東京五輪・パラリンピックが1年延期されるという異常事態に見舞われた。埼玉県内も例外ではなく、2月に武漢からの帰国者が発症、感染者が相次いだ。催しが次々と中止となり、大野元裕知事が不要不急の外出自粛を要請。国の緊急事態宣言が4月に発令され、店舗・施設が休業を余儀なくされた 埼玉新聞社は報道機関の使命として緊急時の取材活動を止めるわけにはいかず、読者目線に立った生活情報の発信に注力した。この間もちろん、臨時職員を含む約160人全員の感染防止策を徹底した。リモート・テレワークの推奨など在宅勤務のあり方が検討されたのを手始めに、懸案だった残業制度改革にも着手し、2021年8月に就業規則を改定した。
現在の編集局

スローガンは「愛する、つなぐ、輝かす」

『埼玉新聞』の宣伝コピーを振り返ると、これまで「県民のくらしに役立つ」「地域を元気に」といった類いのものであったが、社長在任5年を超えた関根がうたうスローガンはひと味違っている。いわく「愛する、つなぐ、輝かす」である。その心は、郷土埼玉と県民を「愛し」、人と人、人と社会を「つなぎ」、登場人物を紙面で「輝かす」ことに力を尽くす――。自身も率先したエピソードがある。

2022年、京都新聞社の大西祐資社長から「京都府で活躍する埼玉県人を紹介してもらえないか」という直筆の手紙が届いた。大半の都道府県が参加する「京都ふるさとの集い連合会」で、埼玉県が欠けているという内容であった。社員の手を煩わせるわけにもいかず、社長業の傍ら、自身で四方八方に手を尽くして調べ上げ、該当者に直接協力を頼んだ。それからしばらく経った2023年11月14日の「埼玉県民の日」に、「京都埼玉県人会」が発足したという連絡が入った。まさに愛する郷土の人たちがつながり、輝いた瞬間であった。関根は心底喜んだ。次の100周年に向けて、県紙として果敢に挑むその精神は間違いはないと確信している。
関根正昌社長

代表ご挨拶

読者、支援者への感謝
埼玉新聞は2024年10月16日に創刊80周年を迎えました。読者や支援者の皆様に感謝を申し上げます。創刊当時の精神「県民の公共機関として国や県に協力しつつ、暴走しない」という理念は今も受け継がれています。過去の変革や自然災害、個人情報保護法への対応、本社移転など多くの試練を乗り越え、今後も次世代へ伝統を守りつつ成長を続ける決意を新たにしています。

埼玉新聞題字

創刊100年を目指して

報道を通じて地域社会への貢献
埼玉新聞社は創業80年を迎え、地域に根ざした報道を通じて埼玉の発展を支えてきました。政治、経済、文化、スポーツなど多様な分野で取材活動を行い、県民に信頼される報道機関としての役割を果たしています。時代の変化に対応しつつも、地域社会への貢献という基本理念を貫き、今後も埼玉県の未来を共に築いていくことを目指しています。

旧社屋

埼玉新聞80年の歩み

試練を乗り越えて
埼玉県唯一の県紙『埼玉新聞』は2024年10月16日に創刊80周年を迎えました。地域紙の発行は明治、大正、昭和の激動期に困難を極め、戦時統制下の「一県一紙体制」を経て、埼玉新聞社が設立されました。1944年10月16日、タブロイド判2ページの第7期『埼玉新聞』第1号が発行され、以来数多くの試練を乗り越えながら発行を続けています。

埼玉新聞社の年表

埼玉新聞社の出来事
埼玉新聞は1944年の創刊以来、地域に根ざした報道を続け、多くの節目を迎えました。最近では、ホームページやスマートフォンでの情報発信、震災への義援金活動、企業キャラクターの誕生など、多様な取り組みを通じて進化を遂げています。2024年には80周年を迎え、地域との絆を深めつつ、次の時代へ向けた挑戦を続ける決意を新たにしています。

郷土・埼玉と県民に愛を捧げることを
キャッチフレーズに込めました。